ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相
岸田 文雄 きしだ ふみお | |
---|---|
![]() 2017年 大阪市内で演説する岸田 | |
生年月日 | 1957年7月29日(64歳) |
出生地 | ![]() |
出身校 | 早稲田大学法学部卒業 |
前職 | 日本長期信用銀行行員 衆議院議員岸田文武秘書 |
現職 | 衆議院議員 |
所属政党 | 自由民主党(岸田派) |
称号 | 法学士(早稲田大学・1982年) |
配偶者 | 岸田裕子 |
親族 | 祖父・岸田正記(元衆議院議員) 父・岸田文武(元衆議院議員) 従兄弟・宮澤洋一(参議院議員) |
公式サイト | 岸田文雄ホームページ |
![]() | |
内閣 | 第2次安倍内閣 第2次安倍改造内閣 第3次安倍内閣 第3次安倍第1次改造内閣 第3次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2012年12月26日 - 2017年8月3日 |
![]() | |
内閣 | 第3次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2017年7月28日 - 2017年8月3日 |
内閣 | 第1次安倍改造内閣 福田康夫内閣 |
在任期間 | 2007年8月27日 - 2008年8月2日 |
内閣 | 第1次安倍改造内閣 |
在任期間 | 2007年8月27日 - 2007年9月26日 |
選挙区 | (旧広島1区→) 広島1区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 現職 |
岸田 文雄(きしだ ふみお、1957年〈昭和32年〉7月29日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(9期)、宏池会会長(第9代)、自由民主党広島県連会長[1]。
内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)、外務大臣(第143代・第144代)、防衛大臣(第16代)、自民党国会対策委員長(第52代)、自由民主党政務調査会長(第58代)、自民党たばこ議員連盟副会長などを歴任。
中小企業庁長官、衆議院議員を務めた岸田文武は父[2]。戦前戦後に衆議院議員を務めた岸田正記は祖父[3]。参議院議員・経済産業大臣を務めた宮澤洋一は従兄弟[4]。愛称は「キッシー」[5][6]。
経歴[編集]
出生[編集]
東京都渋谷区生まれ[7]。本籍地は広島県広島市比治山町(現:南区比治山町)[要出典][8]。父・岸田文武は広島県出身の通産官僚。岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた[9]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[9]。
学生時代〜銀行員時代[編集]
1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国・ニューヨークに居住し、小学校一年生から三年生まで三年間、現地の公立小学校に通う[10]。1963年秋から「PS 20」に通ったのち、1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[9]。岸田にとって少年時の在米経験は、人種差別により正義感と義憤の念を強く持つものとなったが、アメリカ国家としては大らかさ、多様性、活気が印象付けられ、国家の普遍的価値である「自由」に大きな影響を受けることとなった[9]。
1966年6月にパブリックスクール三年次を修了(米国は小学校入学が日本より半年早い)して日本に帰国。7月に千代田区立永田町小学校の三年次に転入。千代田区立麹町中学校を経て、1973年に開成高等学校入学[11]。野球部に入部し、高校生活を野球に捧げ、その傍らでロック/フォークの流行に影響を受けギターに打ち込む[11]。岸田は開成の絆を後半生においても大切にし[注釈 1]、大臣を歴任する政治家となったのちに500名以上の開成OB官僚を率いる開成会の「永霞会」(永田町・霞が関開成会)主催者となっている。1976年に同高校を卒業、東京大学合格を目指し2年間の浪人を経験。1978年に早稲田大学法学部に入学。1979年、父・文武が通産省を退官し、衆議院議員に当選。1982年、同大学同学部(民法(不法行為):浦川道太郎ゼミ[12])卒業[2]、同年日本長期信用銀行に入行[2]。
長銀入行後、最初の配属は本店勤務で外国為替業務を2年半経験し、こののち海運業界担当の営業マンとして高松市に2年半赴任した[11]。世界の金融マーケットで巨額の資金を動かす外国為替は銀行における花形業務である。しかし岸田は高松の地方営業では利息すら払えなくなった会社から経営再建の支援継続を相談されたり、倒産や夜逃げを目の当たりにして世間の厳しさや経済というものの激しい実態を知った[11]。銀行員として社会の矛盾を感じながら、5年間の長銀勤務を終える[11]。
政界[編集]
1987年、長銀を退職して父・衆議院議員岸田文武の秘書となる[2]。岸田の父は口数が少なく、岸田は父の背中から多くを学んだ[11]。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧広島1区から自由民主党公認で出馬し、初当選[2][13]。父親と同じ宏池会に所属する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い広島1区から出馬し、以後広島1区で連続8選[2]。1997年には若手議員の登竜門とされる党青年局長に就任した[2]。
2000年、派閥領袖の加藤紘一が起こした「加藤の乱」に血判状をしたためて参加。乱の鎮圧後は堀内光雄、宮澤喜一らから声をかけられ堀内派に属した[14]。
2001年、第1次小泉内閣で文部科学副大臣に任命される。2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)に任命され、初入閣した[2]。続く福田康夫内閣でも内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)に任命され、引き続き入閣。
2008年、新設された消費者行政推進担当、宇宙開発担当大臣を兼任[2]。福田康夫内閣 (改造)の発足に伴い大臣を退任し、党の消費者問題調査会長・道路調査会副会長兼事務局長、団体総局長に就任[2]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、広島1区で民主党の菅川洋を破り、6選(広島県の小選挙区で議席を獲得した自民党の候補者は岸田のみ。また、広島1区では初めて次点以下の候補者が比例復活した)。2011年9月、自民党総裁谷垣禎一の下、党国会対策委員長に就任し、野党自民党の国会対策を担い与党民主党との交渉を担った(2012年9月退任[2])。2012年10月、政界引退を表明した古賀誠から宏池会を継承し、第9代宏池会会長に就任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、広島1区で7選。
外務大臣[編集]
選挙後に発足した第2次安倍内閣では外務大臣として入閣し[注釈 2]、第2次安倍改造内閣で留任、さらに2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で8選した後に第3次安倍内閣でも再任、自民党総裁選後の2015年10月に発足した第3次安倍第1次改造内閣でも外相を留任する。
2015年7月5日に決定した軍艦島のユネスコ文化遺産登録では、韓国の妨害に対して「forced to work(働かされた)」という表現を用いて遺産の説明を行うことで対処した。この表現について岸田は「強制連行」を意味しないことを明言し、徴用工訴訟問題と関連付けしないことも合意させた[16]。
同年12月28日ソウル市内で尹炳世韓国外交部長官と外相会談をし、日本国政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団に10億円拠出し慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することで合意する日韓合意がなされた[17][18]。
2016年4月、地元広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め[19]、他のG7外相と共に広島平和記念公園を訪問。広島平和記念資料館を訪れた後、原爆死没者慰霊碑に献花を行う[20]。同年5月、バラク・オバマの広島訪問が実現した際にオバマに対して原爆ドーム、原爆の子の像、折り鶴などについて通訳を介さずに英語で説明を行う[21]。
参議院選挙後、同年8月に発足した第3次安倍第2次改造内閣でも留任。同年12月、安倍晋三の真珠湾訪問に同行する[22]。2017年1月6日、外務大臣在職期間が大平正芳を超え、戦後の外務大臣としては歴代2位[23]、専任の外務大臣としては歴代最長となる[24]。
外相の起用[編集]
政策面では、内政の知識と経験が豊富であるが、外務大臣に起用されるまで外交に携わった経験はなく、幼少期のニューヨーク在住を除けば留学・在外勤務の経験もないため、本来なら外相は門外漢であった。しかし、外相起用に際しては普天間基地移設問題などを念頭に、岸田が沖縄担当相を歴任し、知事の仲井真弘多との親交も深いことが理由とされる一方、中国要人との太いパイプを持つ古賀誠を後見人に持ち、対話を重視するスタイルの岸田の起用が中国など関係諸国へのメッセージであるとの報道もある[25]。
安倍晋三とは1993年の当選同期であり、派閥は異なるが関係は良い。安倍が幹事長代理を務めていた時代に、党改革で議論を交わした仲とされ[26]、1度目、2度目いずれの安倍内閣にも入閣しており、信頼も厚い。特に、第2次内閣発足以降、「タカ派」と評される安倍が、連続5期、4年半余りにわたって岸田を外務大臣に起用し続けた理由については、岸田の実務能力を買ったともされるが[27]、『夕刊フジ』は「ハト派」で「親米派」でもあるが「親中派」でもある宏池会出身という点を鑑みて、菅、石破、河野らの人事も含め、中国をはじめとする周辺諸国への友好姿勢をアピールする狙いがあると報じた[28]。
防衛大臣[編集]
2017年7月28日、自衛隊南スーダン派遣での日報の隠蔽疑惑に関する問題の責任を取って稲田朋美が辞任したのに伴い、内閣改造までの一週間に渡って防衛大臣を兼務した[29]。外務大臣と防衛大臣の兼務は憲政史上初であった[2]。
政調会長[編集]
2017年8月の内閣改造では以前から希望していた党三役ポストである自由民主党政務調査会長に就任し、安倍晋三首相を支持して党内を乱さないことで2020年以降の『ポスト安倍晋三』に向けて存在感を示す方針を取った[30][31]。
2018年9月の自民党総裁選挙に向けては、岸田派内では若手を中心に岸田の出馬を求める主戦論が優勢である一方、ベテランなど一部に今回は首相支持に回り3年後に首相からの「禅譲」を狙うべきだとする慎重論があり[32]、最終的に7月2手術は困難なものほど遣り甲斐があって、人ができない手術をやって元気を出さないといけない。簡単なことは誰でもできるから高揚感はない。外科医が花形であるのは、利益を顧みずリスクをとるからだ。楽で金が儲かる仕事はあるが、そういう仕事での精神性は貧しく、神への祈りもない。
(1)四角い部屋を丸く掃いてはいけない
長谷川博先生が1976年の日本外科学会で肝静脈沿いに肝実質を離断する手技を発表されたが、これが非常に印象的だった。その長谷川先生に「一緒に手術しないか!」と誘われ、国立がんセンターに移り肝臓外科を始めることになった。当時、肝臓への流入血を遮断すると患者は死ぬと考えられており、無遮断のままで行っていた肝臓手術ではおびただしい出血があった。そこで、門脈流域がうっ血しないように肝臓の片側だけを間欠的に遮断したところ、出血量が半分に減った。
それまでは、東京大学で術中超音波を使って胆管の同定やLongmire手術などを行っていた(図1)。ちょうどそのころα-fetoproteinの検査が始まり、小さい肝癌の症例で開腹して検索するも術中に腫瘍が見つからないことも多かった。がんセンターに移ってから、本格的に術中超音波を導入し、その過程で発見した門脈腫瘍栓や肝内転移などの概念を発表した。また、三次元で腫瘍と脈管との関係が明確になり、系統的亜区域切除術や右下肝静脈温存手術などの新しい術式を考案した。
図1、術中超音波の導入(1977年)
われわれ外科医は、消化管の癌に対して根治性向上のためリンパ節郭清に血道を上げてきた。肝細胞癌は経門脈的に肝内転移するので、ラジオ波焼灼療法では肝内転移の処理ができない。肝右葉には肝外から認識できる区域間のランドマークがないので、担癌区域をどこまでとるのかという根源的な問題については、染色法などを駆使した領域同定が不可欠である。このように明確な肝臓解剖に基づいた、肝癌の主病変およびその二次病変を包括的に切除する姿勢がきわめて重要である。つまり、『四角い部屋を丸く掃くような切除法』では掃き損なった隅に癌が残ってしまう。また、癌根治性と機能温存との両立については、肝臓外科医が他の領域の医者より一番古くから多くのことを考え、そして克服してきた。肝機能温存だけでなく肝癌根治性も損なってはいけない。いろいろな工夫をこらしてより根治的な手術を追求することが、外科医の生きる道である。
(2)夜を昼にして頑張らねばならない
42歳の時に信州大学に移ったが、小さい肝細胞癌の切除に限界を感じ、肝移植を始めたいと考えていた。肝移植の臨床応用に向けて、論文の勉強や動物実験を行っていた。ちょうどその頃、1989年11月に島根医大の永末直文先生が日本で始めての生体肝移植を実施された。人に先を越されると、野心家はがっかりする。手術も論文も本質は同じで『夜を昼にして頑張らねばならない』、早くしないと他人が先にしてしまう。1990年に生体肝移植を始めるにあたって、「助けてもらえる人にはすべて来てもらう」が基本方針であったが、ドナーの手術は当時国立がんセンターに勤務していた高山忠利君に来て執刀してもらった。1993年には成人レシピエントへの生体肝移植を世界で初めて成功させ、肝移植の臨床現場に画期的なインパクトを与えた。以下に、肝移植での代表的な業績を列記する、
(図2)生体肝移植における肝静脈再建 A=肝静脈Y字再建、B=肝静脈の再建基準、C=Double IVC法
1. 「肝再生制御機序の解明」(Kawasaki S et al. Lancet 1992; 339: 580-1.)
2. 「世界初の成人生体肝移植」(Hashikura Y et al. Lancet 1994; 343: 1233-4.)
3. 「肝静脈Y字再建法」(Takayama T et al. J Am Coll Surg 1994; 179: 226-9.)
4. 「標準肝容積推定式の作成」(Urata K et al. Hepatology 1995; 21: 1317-21.)
5. 「尾状葉加左葉グラフト」(Takayama T et al. J Am Coll Surg 2000; 190: 635-8.)
6. 「生体ドナーへのPringle法」(Imamura H et al. Lancet� 2002; 360: 2049-50.)
7. 「右外側領域グラフト」(Sugawara Y et al. Transplantation 2002; 73: 111-4.)
8. 「肝静脈の再建基準」(Sano K et al. Ann Surg 2002; 236: 241-7.)
9. 「凍結保存ホモグラフトの導入」(Sugawara Y et al. Liver Transpl 2003; 9: 306-9. )
10. 「Double IVC法」(Sugawara Y et al. Liver Transpl 2003; 9: 306-9.)
(3)手術に言葉はいらない心で会話する
外国でも数多くの肝臓手術を行ってきた(30カ国、42手術)。言葉が通じなくて困らないか?とよく聞かれるが、『手術に言葉はいらない心で会話する』からだ。ただし、手術で使う道具名(鋏、鉗子、糸、など)は現地語で知っておいた方がいいし、道具は手持で使い慣れたものを持参した方がいい。1992年に世界最古のBologna大学で肝癌の手術を2件施行したが、その時は高山君に前立ちをしてもらった。
(図3) Bologna大学での肝切除(1992年) 左からMs. Pellegri(機械出しナース)、Prof. Gian Luca Grazi、幕内雅敏、高山忠利、Dr. Begliomini (麻酔科医)
手術法を選択するには知識が豊富なacademic surgeonでなければならない。理論的に死亡の無い手術を選択しないといけない。「うまくいけばもうけもの」といった手術は手術でなくギャンブルだ、「絶対に大丈夫だと思っても人は死ぬ」からだ。私は膵管二期再建や門脈塞栓を実践しているが、これは手術死亡を実質的に0%にするためだ。この方針を過大対応と非難するむきもあるが、それが過大か適切かの判断は患者自身のものだ。同時に、新しい手術を開発するには、まず旧来の手術を良く知っており、他科の手術も良く知っいて、いつも手術のことを考えている「専門バカ」にならないといけない。
手術を上手に行う上で必要な7原則を列記する。
1. 糸がきっちり素早く縛れること。
2. 消毒から布をかけて、手術本体を完成し、最後ドレーンをつないで糸で縛る。これらが頭の中でちゃんと画面で出てくること。
3. いろいろな臓器の立体構造がよく理解できていること。
4. 術前・術後管理が抜け目なくきちっと出来ること。
5. 癌の手術とはなんぞやという根本をよく理解できていること。
(4)Cushingのacademic surgeon7原則
なぜ論文を書かねばならないのか?医師の道を選択した以上論文を書くことは責務であり、この作業を通じて自己の問題点を見つめ直すことで新しい知見を生み、最終的には患者利益に資する必要がある。論文は絶対的に英文でなければいけない!いい知見を少しでも多くの患者に広げるためだ。
英文論文の構成を一言で述べれば、Introduction は問題提起、Materials and Methodsは自分の手術内容、Resultsはその手術成績、Discussionは他人との手術成績の比較である。このようなレビューはどのような臨床現場でも必須であり、論文を書く作業は臨床医の最低限のモラルなのだ。state of the artで世界や日本の現状を知ることは、臨床医がICを取るとき、手術適応の決定、手術法の選択などに必須である。これを通じて、患者が医者および医療施設を選択する権利を保障しなければならない。
非常に良い手術を考案したら、世界中の患者がその恩恵に浴するべきであって、その成果を英文論文に書かないのは不作為であって、医師として道徳的犯罪に相当する。
さらに、『Cushingによるacademic surgeonの7原則』を引用して若手外科医の参考に供したい。
1.He must be a researcher.
2.He must be able to inoculate others with the spirit for research.
3.He must be a tried teacher.
4.He must be a capable administrator of his large staff and department.�
5.He must, of course, be a good surgeon.
6.He must be co-operative.�
7.He must have high ideals, social standing, and agreeable wife.
おわりに
私たちは、外科のプロフェッショナルである。『優れた外科医となるために』、しっかり勉強して、365日しっかり患者さんを診る。結局、医者に休みはないんだ。そのことに矛盾を感じなくなれば、きっと良い医療ができる。
当たり前」を積み重ねる日々
日本赤十字社医療センター院長
東京大学名誉教授
幕内 雅敏 先生
「世界の幕内」と呼ばれて久しい。東京大学卒業後、一貫して肝臓外科を専門とし、肝切除術の分野では国内はもとより、世界的にもその業績は広く認められている。肝切除の術中に用いる超音波診断機の開発、肝臓の系統的区域切除術の開発、常にクリエイティブな発想で独自の道を切り拓いてきた。「目の前の患者さんのために、やれることをやってきただけ」。振り返ってみれば30数年、2000人近くの命をつないできた。2007年、日本赤十字社医療センター院長に就任。これまでとは違った視点を要求される院長職をこなしながら、臨床を束ねる日々について、近況を伺った。
手術が始まったら、祈りながら終えるだけ
院長を兼ねながら、現在、手術数は週に4~5例、東大の外科時代、年に300例をこなしていたころとは比べものにならないが、相当の激務である。
「この前の手術は少し長かったね。朝から始めて、結局翌日の午前4時半くらいまでかかったかな」。ベテラン外科医はいともあっさり話されるが、所要時間約20時間。生体肝移植の平均手術時間は約16時間。手術後には、1キロ程度は体重が減る。肝切除も長いものがあり、やはり激務である。
体が資本の外科医、長丁場の手術に耐える健康を保つ秘訣に水を向けたが、「僕は子どものころはよく病気をして、もともと体は弱い。なぜそんなに元気なんですか、と聞かれても困ってしまう。自分の健康のためになんて、何もしていない。やるときはやるとしか言えません。長年の修練の賜物、多くは気力で乗り切る。あえて言えば、祈りと信仰の日々ですよ(笑)」
相手の気をそらさない会話運びからは、素早い判断力がうかがえ、冗談のなかにも、仕事への責任感や厳しさ、そして自信が垣間みえる。
「年のせいか(笑)、最近はだんだん手術もつらくなってきている。でも、手術室に入れば体が自然に動く。そして、手術を始めたら、患者さんのためにどんなことがあろうと続けるしかないんです。その間は、祈るような気持ちです。どうか無事に終わってほしいとね」
さて、院長職については「確かにこれだけたくさんの書類にハンコを押す仕事はこれまでなかった」とし、「でも、医療にかかわるという意味では、当たり前のことを当たり前にするだけ。院長であれ、外科医であれ、本質は同じです」と続けた。
当たり前のことをするというのは、誰に言っても批判されないことをする、誰にでも堂々と言えることをする、ということ。「その当たり前が大事なんだ、とここに来て、つくづく感じました」
経営者であっても、医療人として根底に通じるものは同じ。派手なパフォーマンスではなく、経験の重み、地道な積み重ねの大切さを説く。「神の手」と言われるほどの卓越した技術力を持つ外科医を支えてきたのは、試行錯誤。失敗から学ぶ謙虚さであり、失敗を克服するための工夫である。「僕たちの失敗は人の命にかかわります」という言葉は重い。
24時間、365日、医師であれ、がモットーであるという幕内先生。「例えば、趣味は何?と聞かれたときに、医療以外のことを挙げる人がいますよね。ある意味、それは僕にとってはエセ医者。僕たちは医者。常に患者さんのことを考えるのが当然」
患者さんに異変があれば、術後の管理に何か問題があったのではないかと考えるし、術中に急変があればどこにミスがあったのかと考える。「目の前で死んでいく患者さんの数をどう減らすか、その死をどう防ぐか」。そこに工夫が生まれる。
外科医も院長も、医療にかかわるものとして本質は同じ
幕内家は、父親も外科医。そして、男三兄弟すべてが外科医の道を選んでいる。今思えば「無理強いされた覚えはありませんが、いろいろ自然にしむけられてたのかな。その意味では、まんまとおやじの術中にはまったのかもしれませんね」。幕内先生によれば、「学校の成績は、兄弟では僕がいちばん出来が悪かった」という。しかし、手先は器用、絵を描くこともうまく、図画・工作は大好き。「外科医としての資質には大切だったと思いますよ(笑)」
ところで、幕内先生が、最近強く感じることのひとつが医療経済の矛盾だ。社会的にはあまりよく知られていないが、勤務医の給料は労働力に見合うとは決して言えない水準であるという。
例えば、過酷な労働条件で、訴訟のリスクも抱える外科医。一時は新入会員数1800人を数えた日本外科学会だが、最近は新入会員が約半数の900人足らずだという。外科医のなり手がどんどん減少している。
「日本の医療技術に対する診療報酬は、ある意味、非常に過小評価されている面があります」
最新の高度医療を提供するシステムを維持するには、機器の買い替えはもちろん、施設の建て替え、それを十分に使いこなすスタッフの確保と能力維持のための教育等々、膨大な経費がかかる。医療とてお金と無縁ではない。いや、実は医療ほどお金がかかるものはない。「それなのに、ほとんどの患者さんたちは、できれば負担はゼロで、それでいて最高の結果を医療に求めているように思えます」
外科医の数も、このままの減少傾向が続けば、ごく簡単な手術でさえ行えない日が来るかもしれない。「医療は人的資源がいる仕事。そのためには、やはりそれを支えるコストがかかります」。そのコストを負担すべきは誰か。きれいごとだけではない議論が切に望まれる。
肝切除術では、連続して1056人の命を救い、「申請すれば間違いなくギネス」と本人も自負する実績だ。外科医の父は2008年に100 歳を迎えた。その時、幕内先生は62歳。「人間が生きるってどういうことかなって、このごろ時々思いますね」。それでも、医師は今日も患者のために働き続けるだけだ。24時間、365日、医師として。
1946年8月生まれ。東京大学医学部卒業。国立がんセンター手術部長、信州大学医学部教授、東京大学大学院医学系研究科教授などを経て、07年4月より日本赤十字社医療センター院長。信州大学時代に国内3例目の生体肝移植を行い、成人生体肝移植に世界で初めて成功。以降、生体肝移植の症例数は500を超えている。肝臓を血管の支配領域ごとに8つの区域に分け、最小限の部分だけを切除する「系統的区域切除術」を開発。また、肝臓外科に超音波診断を導入したパイオニアでもある。
コメント
コメントを投稿