ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相

 


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9 Jan 2001 - 4 Feb 2008
NOVFEBMAR
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200720082009
千九百十二年日記(明治45年・1912年)
今年ほど新年らしい気持のしない新年を迎えたことはない
明治45.1.1
その醜悪な姿を見る毎に何とも言えない暗い怒りと自棄の念
明治45.1.7
母が二三日前から時々啖と一しょに血を吐くようになった
明治45.1.19
征露丸という丸薬を百五十許り持って来てくれた
明治45.1.22
母の病気が分ったと同時に、現在私の家を包んでいる不幸の原因も分ったような明治45.1.23
母の生存は悲しくも私と私の家族とのために何よりの不幸だ!
明治45.2.5
金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかった。明治45.2.20
1月 2月
1月1日
今年ほど新年らしい気持のしない新年を迎えたことはない
 今年ほど新年らしい気持のしない新年を迎えたことはない。というよりは寧ろ、新年らしい気持になるだけの気力さえない新年だったという方が当っているかも知れない。からだの有様と暮のみじめさを考えると、それも無理はないのだが、あまりよい気持のものではなかった。朝にまだ寝てるうちに十何通かの年賀状が来たけれども、いそいそと手を出して見る気にもなれなかった。
 いつも敷いておく蒲団は新年だというので久し振りに押入にしまわれたが、暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だった。二日だけは気の張りでどうかこうか持ちこたえていたが、今日はとうとうまいってしまった。
 先ず朝早くから雑煮がまずいと言って皮肉な小言を言い、夕方に子供が少し無理を言い出した時には、元日だから叱らずに置こうかと自分で思ったのが癪にさわって、却ってしたゝか頬辺をなぐって泣かせてやった。じっとして行火に寝ていても、背中に熱のあるのが絶えず意識に上っで、不愉快で不愉快で仕方がなかった。新年を迎えたというのがちっとも喜はしくないばかりでなく、またしても苦しい一年を繰返さねばならぬのかと思うと、今まで死なずにいたのを泣きたくもあった。『元日だというのに笑い声一つしないのは、おれの家ばかりだろうな。」こう夕飯の席で言った時には、さらでだに興のない顔をしていた母や妻の顔は見る見る曇った。
 隣近所の廻礼は、今日から六つという京子に口上を教えて、午前のうちに名刺をくぱらした。向うからも玄関まで来た。
 たった一つ気持のよかったのは、午後に,「学生」の西村真次君からの使いが五円封入の手紙を持って来た事であった。暮の二十九日に原稿料前借の手紙をやっておいたのが、旅行中で三十一日の晩まで見なかったと言って、自分のポケットから借してよこしてくれたのである。何度も何度も紙幣を折ってみたり、披げてみたリして、しみじみ有がたいと思った。
 三十八度一分まで上った熱は、寝る頃になって七度三分まで下った。
1月2日
 新聞によると、三十一日に始めた市内電車の車掌、運転士のストライキが咋日まで続いて、元日の市中はまるで電車の影を見なかったという事である。明治四十五年がストライキの中に来たという事は私の興味を惹かないわけに行かなかった。何だがそれが、保守主義者の好かない事のどんどん日本に起って来る前兆のようで、私の頭は久し振りに一志きリ急がしかった。
 朝から吹き出した風が一日やまないで、家の中には砂埃がまいこみ、天井からも土のようなものが落ちた。空気までが埃臭くなったようで、一日いやな思いをした。
 午前に西村君への礼状をかいた。そうして妻を本郷までやって、例の散薬を十日分とピラミドンを五日分だけ買って貰った。散薬は一日分たった七銭なのだが、それでさえこの三月許りのうちに、たった一週間分だけ十二月の初めに買ったきりであった。新年の雑誌も買いたかったが、それはやめにした。
 午後に思いがけなくも作田喜三郎が手土産を持ってやって来た。思いがけなかったとはいうものゝ、作田が来たと聞いた時には、その用向も大抵分った。案の如く、私の名を騙っていねをその隠れ家から連れ出して行ったのは彼であった。それで今はまた依然のように一しょに暮しているから、どうかもと通り御世話に預りたいというのが彼の武骨な口上の要旨であった。「そんならそれで可いだろうさ。」と私は言ったが、熱が出て来て苦しかったので、失敬してピラミドンをのんで寝た。作田は隣室の母に逢って来てから、問わず語りに色々家事に心を砕いた話をして帰って行った。父をば駿河台のとある病院へ使丁に人れた。其処では別に仕事という程の仕事もなく、泊り込みで月三円の外に患者や看護婦からの心づけもある。いねは家に置くと、すぐ向いの親籍の家でまるで下女のように使うので、相談の上逓信省附属の製本所へやっておく。其処ではまた万事が厳重に取りしまられているので、自堕落になる怖れはない。-こう語る彼の顔には満足の表情があった。そうしてその衣類も外套も新らしかった。
 作田が帰ってゆくと、私はひとり微笑まぬわけに行かなかった。彼にはなるほど一度私の処へ詫びに来る心はあったかも知れない。しかし彼をして今日私の処へ来さしたのには、もっと痛切な理由がある。彼は平生自分といねとを踏みつけにする向い合わせの親類-昨夜から今朝へかけて烈しい喧嘩をしたというその親類の家の悪口を言う家が一軒見つけたかったのである!
 夜になると、熱は薬のために下っていたが、心はあたらしい暗さに占められていた。私は今月から何かしら書いて原稿料をとらなくてはならぬ事になっている。何を書こうか?こう思うと、もう何事からも興味を見付けかねるような私の今の心は、恰度きりきりとしめ木にかけて書を絞められるように痛んだ。いつしか行火にまどろんで、不図目をさまして、そうしてこれも夕方から居眠リばかりしていた妻を呼び起して寝床の仕度をさせた時には、私はすっかり今日が正月の二日だという事を忘れていた。
1月3日
 だとえようもない不愉快な日であった。熱がやっぱり三十八度の上にのぼった。ピラミドンをのんだ。
 もう三ケ日もすぎたのに、私の家には、近所の人が門口まで来た外、一人の客もない。
 今日までに送って来た新年の雑誌は、『スバルー』、『詩歌』、『層雲』、『ローマ字』『世界』、『精神修養』、『朱欒』。
 市中の電車は二日から復旧した。万朝報によると、市民は皆交通の不便を忍んで罷業者に同情している。それが徳富の国民新聞では、市民が皆罷業者の暴状に憤慨している事になっている。小さい事をがら私は面白いと思った。国民が、団結すれば勝つという事、多数は力なりという事を知って来るのは、オオルド・ニッポンの眼からは無論危険極まる事と見えるに違いない。
1月4日(木)
 午後に並木君が来た。彼は今年になって最初のわが家の客であった。二時間許り話して、一しょにとろゝ飯を食って帰って行った。久しぶりで友人というものに逢ったのだから嬉しかるべき筈だったのに、帰ったあとでは反対の心持が残っていた。
 四十日許り前に逢った時に比べると、彼の頬は大分削けて、そして顔色が悪かった。予防のために最新ツベルクリンの注射をうけたいなどゝ言っていた。何でも彼の親しい友人の一人で、丈夫な男だった又木というのが洋行して、ドイツに着くか着かぬに喀血したという最近の事実が、大分彼の心を脅かしているらしい。そうかと思うと、おれは金持になって、交詢社などを中心にしている今の俗悪な実業家共に対抗する一つのサアクルを作るんだと威張ってもいた。
『それは面白いね』と私は言った、面白いと思ったのは、しかし、彼の企てそのものではなくて、彼-肺病に脅かされている無資本の彼が、そうした空疎なアスピレエションを真面目に考えているという事にあったのは仕方がない。
1月5日(金)
 今日は朝から気分がよくて、土岐が来そうな日だと思っていると、果して午後一時少しすぎにその土岐がやって来た。私は早速ピラミドンをのんで熱の予防しながら話した。
 二人の間には何時逢ってもこれという細まった話の出た事はない。しかし私の言う事には土岐は何でも賛成するし、また土岐の面白がる事は私にも面白い。人は彼には気障な処があるように言うが、私にはその気障に見える処までが面白い。初めて洋服をこさえた者は、一寸近所へ行くにもそれを着たがるものだが、土岐は自分の心の新らしいのが珍らしくて、それを正直に成るべく多くの機会に言葉や挙動に現わそうとしているのだ。
 青柳のおこしの罐に入ったのと、門司から送って来たという大きい朱欒とをお土産に持って来てくれた。朱欒は四つ来たのを、一つは家、一つは生家、一つは細君の実家、そうして残る一つを私へ呉れたのだという。撫でゝ見ると不思議な肌触りか私の鈍い神経に一種のかなしみを伝えた。『君は去年中にたった一度僕ン処へ来てくれたっけが、あれは一月の十六日だったってね。』こんな事も土岐が言った。二人は少しはにかんだような調子で、二人の親友になった事を祝福した。彼は今度出す歌集を私にデジケエトする事を誓った。夕方になると妻は鶏肉の入った雑煮をこしらえてくれた。土岐はそれを食って、これから夜勤にゆくと言って帰って行った。
 夜にはその朱欒を家内中で食ってみた。そのあとで私は行火に眠った。十二月中は不眠のために弱ったが、年が明けてからは眠いので困る。
1月7日
その醜悪な姿を見る毎に何とも言えない暗い怒りと自棄の念
 昨日も今日も言いがたき不愉快のうちに暮らさわばならなかった不幸を、私ば此処に嘆かすには居られない。妻はこの頃また少し容態が悪い。髪も梳らず、古袷の上に寝巻を不恰好に着て、全く意地も張りもないような顔をしていて、そうして時々烈しく咳をする。私はその醜悪な姿を見る毎に何とも言えない暗い怒りと自棄の念に捉えられずには済まされない。
 今日も私が行火に寝ていると、妻は風の吹く椽側に出ているようだった。そこで私は前後二度『椽側は寒くないかい?』と言った。初めの時はたゞ『いゝえ』という返事しか耳に入らなかったが、三十分許り経て二度目に言った時には、『椽側になんかいませんよ』という突樫貧な答えで酬いられた。次の間の行火に寝ているらしかった。私はその時、何かしら怒った言葉を言わねばならぬ心持になった。しかしその時私は仰向に寝ていたので、怒るだけの力がまるで腹になかった。
 夜になって、京子の寝る時、妻はまた烈しく咳をした。『お前も寝ろ』と私は命令的に言った。妻も寝た。そこで私は、『咳の薬を買って来るが、のむか、のまないか』と聞いた。『私が明日行って買って来ます。』『いゝや。おれの親切はお前にはうるさいようだけれど、お前のその咳をきくとおれは気違いになりそうだ。』こう言って私は寒い風の吹く中を、電車通まで行って、咳の薬と浅田飴とを買って来た。私は自分を憐れむの情に堪えなかった。
 土岐から,『早稲田文学』の新年号を送って来た。
1月9日
 兎も角もこの二日間は穏やかに過ぎたというものだ。今日は殊に朝から気分がよかったので、思い切ってひと月振りに湯に行った。札を二枚買って流させたが、ひどい垢だった。熱い湯につかって、湯槽のふちに項をのせて、静かに深呼吸をしていると、何だか自分のからだに病気があるというのが嘘なように思われた。それほど気持がよかった。
 午後には、しかし、熱がまた三十八度まで出たので、うろたえてピラミドンをのんで、夕方までじっとして寝ていた。夜には午前に書き出した杉村氏への手紙を九時頃までかゝって書き了えた。それは此間の賀状に書いてあった同情の深い言葉に対して礼をのべるためであった。私の心には久し振りに平和があった。
『学生』に何か書いて送らねばならぬという事が、絶えず私の心にあった。しかし今日まではまだ何も書けない。
1月11日(木)
 『北西の塔』という天気予報が何日も何日も続いている。
 今日は気分がよかった。午前に新聞をよんでから、『学生』に送るための『新しい歌の味ひ』というものを書き出していると、もう午近くなって丸谷君が来た。暮から一の関の許嫁の処へ行っていたのが、今朝帰って来たのだそうだ。
豆銀糖と林檎を持って来て、町の片側に雪の残っていた北国の静かな町の話をした。そのうちに並木の血色の悪い話が出ると、彼は『ラヴじゃないかな』と言った。『又木の妹が。』こう私が直覚的に言うと、それが不思議に彼の想像と一致していた。両方で話し合って見ると、二人の想像は余程事実に近いものらしくなった。並木が恋をしている! この事は少なからず私の興味を惹いた。しかし私は、どうしたものか、その恋が彼のために幸福を齎すとは思えなかった。私には彼の血色のよくないのが、彼の生涯にとって恋以上の重大事のように思われた。
 土岐もを髯を立てゝいる、並木も丸谷もこの頃立てた。そうして三人が三人とも毛織のロシア帽(?)をかぶっている。
 丸谷を玄関に送り出した時も、『今日は実に気分がいゝ』と私は言った。実際そう思っていた。しかし三時間も続けて話したのが、私のからだに何の影響なしには済まなかった。一人になってから、何だか少し変だと思って計ってみると、熱は三十八度四分まで上っでいた。そうしてまだまだ上って来るような気がした。私はたった一服残っていたピラミドンを服んで、夕方まで汗をとった。
 夜になると熱は下ったが、からだは疲れていた。豆銀糖を食っていると、不図私は盛岡の蒸北起が食いたくなった。
1月12日(金)
 今日も不愉快な一日を送らねばならなかった。熱は三十八度三分まで出た。
しかしもうピラミトンはなかった。
1月19日(金)
母が二三日前から時々啖と一しょに血を吐くようになった
大分久しく日記をつけないでいたが、その間私は毎日熟に苦しめられながら、非常な苦しい思いをして『学生』の西村君に送るべき原稿を書いていた。初めは『新しい歌の味ひ』と題して土岐の歌の評釈をするつもりだったが、やっぱり私は人の歌の評釈などをする事に適しなかった。それで途中から小品文をかくことにして、一日に十行の原稿紙へ一枚以上五枚位ずつ書いた。いくら努力してみてもそれ以上は書けなかった。そうして今日ようよう四篇だけ書了えて『病室より』という題をつけて京子に投函さした。
 十三日か十四日の晩から、せつ子と京子を隣室へ母と一緒に寝せることにした。せつ子はやっぱり咳がはげしいので、炊事向は万事また母一人でやっていたが、その母が二三日前から時々啖と一しょに血を吐くようになった。それでもせつ子は、自分は薬を怠けて飲まずにいたりする癖に、水まで母にくませていた。あまり顔色がよくないので、今夜熱を計ったところが、三十八度二分、脈搏百〇二あった。医者に見せたくても金がない。兎も角二三日は寝ていて貰うことにした、『明日から私がします』とせつ子が言った。
京子も今日はよかったようだが、二三日来また少し熱があった。私の家は病
人の家だ、どれもこれも不愉快な顔をした病人の家だ。『おれは去年の六月、とうとうお前が出てゆかない事になった時から、おれの家の者が皆肺病になって死ぬことを覚悟しているのだ。』こんな事を今朝言ってみた。私の熱も三十八度一分まで上った、そうしてもう薬がとうに尽きている。
 咋日光子から手紙が来た。兵庫県武庫郡芦屋村に聖使女学院へ暮の三十日に移っだそうである。
 今日は函館の堀合から手紙が来た。赳夫が学校の不成績に失望し、父の預かっていた漁業組合の金五十円を拐帯して逃げたのだそうな。若し行ったらよろしくと言って来た。
 去年のうちは死ぬ事ばかり考えていたっけが、此頃は何とかして生きなけれぱならぬと思う。
1月21日(日)
 母の吐血はやっぱりとまらない、咳をする度に多少ずつ出る。もう初めからで御飯茶碗に二つ位は出たらしい。それだのに売薬さえ買うことが出来ないという事は、ひどく私を悩ました。、昨夜は寝る前に、『明日か明後日少し金をこしらえるから、それまで待ってくれ』と母に言ったが、しかし別にアテがあったのではなかった。
 今朝ふと思いついて森田車平君へ手紙をかいた。事情をこまかに書いて、そして原稿を以て返すからという条件で金策を頼んでやった。
 午後になると丸谷君と並木君がつれ立って来た。別に変った話もなかったが、二人とも元気であった。母の話をすると丸谷君は見舞だといって一円置いて行った。
 一円あると最初二日分の薬価には大丈夫間に合うというので、早速妻を、去年も母の病気にたのんだ近所の走った医者へ走らした。しかしこれは失望に終った、医者は十二月以来脊髄炎で動けないでいるのだそうだ。
 そこで、兎も角も森田君の方の返事のあるまでと、夜になって売薬を二種買わせた。一つは啖咳のきれる薬、一つは解熱。それでようやっと少し安心したような気持になったが、今朝からすっかり床に就いてしまった母の、あの直視するに忍びない程老衰したからだを思うと、音がなければ息がきれたのではないかと心配せねばならなかった。妻には夜便所へ起きる度に母の様子を見るように吩咐けた。
 咋日あたりから痛かった頭は、夜になって雨が降り出したために少しなおった。
 佐藤さんと釧路の秋浜融三とから思いがけない手紙が来た。佐藤さんからは、築地の海軍大学構内にある市立施療院へ入らないか、入るとすれば社の太田昇三郎氏が手続をしてくれる筈だと親切に知らして下すったのだった。それについて考える私の頭は、明くなり暗くなりした。妻の顔はひどく明るかった。秋浜からは東京へ出たいと言って来た。
1月22日(月)
征露丸という丸薬を百五十許り持って来てくれた
 今のように薬ものんだり、のまなかったりしているようでは仕方がないから、進んで施療院に入院する、但し今は母が悪くているから少し待って貰いたいという返事を佐藤さんへ書いた。
堀合へ出奔人の来ない通知も出した。来ても臨機の処置以外の世語は病人だらけの家だから出来ないと書いた。
 午頃になって森田君が来てくれた。外に工夫はなかったから夏目さんの奥さんへ行って十円貰って来たといって、それを出した。私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんにはお目にかゝった事もないのである。それから征露丸という丸薬を百五十許り持って来てくれた。これは日露戦争の時兵隊に持たせたもので、ケレオソオトと健胃剤が入っているから飲んだらよかろうという事だった。そうして千駄木にいる知人の医者を紹介してくれると言って、自分で出向いてくれた。
 その医者は、しかし、夕方まで待っても来なかった。夜になっても来なかった。母は今日は少し気分がよさそうだったが、それでも矢張数回血の交った啖を吐いた。
 夜に二月ぶりに熱が三十六度七分五厘まで下った。うれしくて仕方がなかった。外に理由がないから征露丸のおかげかも知れないと言って、寝る前にまた二つのんだ。昼には三十八度二分五厘までの熱だった。
1月23日(火)
母の病気が分ったと同時に、現在私の家を包んでいる不幸の原因も分ったような
 昨夜のよろこぴはぬかよろこぴだった。今日もやっぱり三十八度以上に発熱した。午前に妻が病院へ行ったついでに散薬を一週間分とピラミドン五つ買って貰った。
 朝早く森田君の手紙をみた。アテにして行った医者は眼科医だったので、知人と相談して下谷の柿本医師に今日の午後行って貰うことにしたというのだった。母の喀血は少しとまり気味だった。
 待ちに待っだが、その手紙の中の医者はとうとう日が暮れても来てくれなかった。そこで思い切って近所の三浦という医者に使いをやったところが、三十位の丁寧な代診が来た。診察の結果は、母はもう何年前よりとも知れない痼疾の肺患を持っていて、老体の事だから病勢は緩慢に進行したにちがいないが、もう左の肺はほとんど用をなさない位になっているという事だった。
 喀血したからこそ『或は…』と思っていたものゝ、これは私にとっては全
く初耳だった。しかし不幸にして私は、医者の言葉を証拠立てる色々の事実を知っていた。母がまだ十五六の頃に労性乃ち今の肺病をわずらったという話も母の口から聞いた事があったし、そればかりか数年前から、母は左を下にして寝れば咳が出て眠れないと言っていた。そうして去年私の入院中にも母は多少喀血したことがあるそうである。……私はまた長姉の死因についても考えなければならなかった。
 三浦の代診の帰って行ったあとで、薬をとりに行った妻の戻る少し前に、柿本医師が来てくれた。診察の結果は矢張同じだった。病気が重いし、老体の事であるから、十中七八は今明両月の寒さを経過することが出来まいというのである。医師は世慣れた調子で色々親切な注意をして帰られた。薬は三浦からよこした散薬と水薬ていゝという事だった。
 母の病気が分ったと同時に、現在私の家を包んでいる不幸の原因も分ったようなものである。私は今日という今日こそ自分が全く絶望の境にいることを承認せざるを得なかった。私には母をなるべく長く生かしたいという希望と、長く生きられては困るという心とが、同時に働いている…
1月24日(水)
 小樽の山本、芦屋の学校の光子、それから丸谷君へ母の病状を報ずる通知をかいた。それから佐藤氏へも当分施療院へ入れないことを報じた。
 熱を犯してこれらの手紙を書いたのが、ひどく私のからだの怒りにふれたらしく、一旦下りかけた熱が夜また三十八度一分まで出た。それでピラミドンをのんで寝たが、殆とひと晩うなっていたそうだ。明方目をさまして計ってみるとやっぱり三十八度一分あったので、またピラミドンをのんだ。
 母は医者の注意でなるべく動かさぬように、大小便も便器にとり、夜は湯たんぼを入れて寝ることにした。せつ子は急に一切万事をやらねばならなくなったので非常に急がしい。母のは食器は煮る事、啖は容器にとる事にした。
1月25日(木)
 せつ子は病院へ行って、もう大分可いから一週一回ずつ薬をとりに来るだけで可い生言われて来た。私は今日は悪い日だった。午後に三浦医師が来てかえった後、三十八度六分まで熱が上った。
1月26日(金)
 朝から寒い雨がびしょびしょ降っで、終日晴れなかった。母も私も、それから家事に追われている妻も、あじきないような淋しい一日を送った。夏目氏夫人へ礼状を書いた。
 夕方、妻は一寸夕飯のおかずを買いに出た。そのあとで子供にお話をせがまれながら寒い雨の音をきいていると、杉村氏から手紙が来た。私のためにまた社中に義金の醵集を企てたという通知だった。感謝の念と、人の同情をうけねばならぬ心苦しさとが嵐のように私の心に起った。そうしてそのあとには、兎も角もまたまとまった金が来るという安心が残った。手紙には、回章も廻さず、金額の記帳も求めず、単に掲示にとゞめたから金額は例より少いだろうが、それは然し促さざる同情の結果と見て諒とせよと書いてあった。
1月27日(土)
 堀合からまだ赳夫さんの行方が不明だという葉書。
 杉村氏へ礼状を書いた。土岐君へは葉書。
 三浦という医者は横平な奴だ。来ると案内も乞わずに勝手に上って来る、そうして図々しい物の言い方をしながら診察して、済むとまた碌に挨拶もせずに帰って行く。癪にさわって仕方がない。母は別段変りなしという事だった。
1月28日(日)
 咋日も一咋日もピラミドンを二度ずつのんで熱を抑えた結果却って夜寝る頃になって三十八度以上に出て困ったから、今日は朝にも昼にものまずにいた。すると午後三時になって三十八度四分まで上った。その時初めて一服のんで汗をとった。私のからだももう大分悪くなってるらしい。
 母はことによると、もう直らないと覚悟してるのかも知れない。無論病気の性質や名はちっとも知らず、矢張いつか怪我をした時の打血が出たのだと思っているらしいが、今度喀血する前に自分がまだ小さくて父と一しょに何処がへ遊びにゆくところを夢に見たそうだ。母はもう何十年とも知れない前から、自分の父の夢を見ると屹度何か悪い事が起るという事を信じていた。そうして咋日は妻に、北はどっちだときいていたし、今日はまた、矢張自分がまだ小さくて、盛岡の仙北町の長松寺(母の生家の菩提寺)の庭でお菓子や米のどっさり落ちていたのを拾って食っていた夢をみた話をした。咋日から喀血はすっかりとまり、呼吸する時の雑音も聞えなくなり、胸のいたみも直っだといっているが、からだは極度に疲労していて、目をあいているのさえ疲れるという。意識ははっきりしている。それからいくら言っても聞かずに、昼だけは大便は便所へ行く。
 此間来た秋浜融三の手紙に返事をかいた。
 丸谷君の一円、森田君からの十円、合せて十一円の金はもう一円ばかりしか残らなくなった。
1月29日(月)
 もう少しで十二時という時に、社の人々十七氏からの醵集見舞金三十四円四十銭を佐藤氏が態々持って来て下すった。外に新年宴会酒肴料(三円)も届けて下すった。私はお礼を言う言葉もなかった。
 今日は医者が、母の容態は少しいゝと言って帰った。私の熱も朝に三十七度八分あっただけで、ピラミドン一服のお蔭でそれ以上には出なかった。
 夜にせつ子の綿入と羽織と帯を質屋から出させた。
1月30日(日)
 今日は午後にせつ子が子供をつれて本郷まで買物に行き、こしらえ直す筈の私の着物も質屋から出して来た。子供は久振りに玩具だの前掛だのを買って貰って喜んだ。
 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すような心で、俥にのって神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買いに出かけた。帰りがけに或る本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買った。寒いには寒かったが、別に何のこともなかった。
 本、紙、帳面、俥代すべてゞちょうど四円五十銭だけつかった。いつも金のない日を送っている者がタマに金を得て、なるべくそれを使うまいとする心!それからまたそれに裏切る心!私はかなしかった。
1月31日(水)
 見舞を送られた社の有志十七氏にそれぞれ葉書の礼状を書いて出した。
2月1日(木)
 せつ子は午前に病院へ行き、午後は社へ行って前借して来た。その留守に並木君が来て、今後丸谷、土岐の三人で私の薬を欠かずに飲ませたいから、何という薬だか知らしてくれと言った。私は、薬はまだあるし、それに当分は買うだけの金があるからと言って好意だけを謝した。今日は二人とも快活に話した。熱は三十八度一分まで出た。
2月3日(土)
 昨日午前から降り出した雨が今日まで降りつゞいた。熱はまた高くなった、
昨日は三十八度五分、今日は同じく四分。
 母の容態は変化がない。医者は隔日に来る。光子からは通知をしてから手紙も来、鳥羽先生の好意だという真綿の間着も送って来たが、小樽からは今以て葉書一枚来ない。
2月5日(月)
 昨日も今日も朝から三十八度以上の熱でなやまされた。ピラミドンを二度も三度ものんでも仲々抑えきれなかった。全く何もしないで寝てくらした。食慾不進。
 医者は、母の容態は少し可いようだから、これからは隔日には来ないと言った。併し喀血こそは止ったれ、食慾は進まないし、殆ど食ったものより余分な位の通じがある。そろそろその薬代が心配になり出したが、小樽からは矢張葉書一枚さえ来ない。
 母の病気の事の分った時は、何だか今迄正体の知れなかった自分の不幸がよほと明らかになったようで却って安心したっけが、此頃はその分った結果の恐ろしさが目に見えて不愉快である。私は母をも一度丈夫にしてやりたい、併しそれは望まれない事だ。そうして母の生存は悲しくも私と私の家族とのために何よりの不幸だ!
 函館の赳夫さんの事が二三日前の盛岡の新聞に詳しく出た。五十円拐帯して海を渡り、青森で色々資沢な買物をして盛岡にのりこみ、大手先の宿屋にとまっていて女郎買をしたり旧友と牛肉店をあらし廻った末、月末になっても宿料を払うことも出来なくなり、自殺するという書置をしてブラツいているところを巡査につかまったというのだった。新聞の記事だけでは、学問以外で身を立てようとして家出したというような心掛は少しもありそうになかった。妻は泣いた。
 今日森田君から親切なハガキを貰った。それにはハウプトマンの「織匠」をよんで自分も何か憤る所あって筆をとりたいと思っだということが書いてあった。-『芸術のための芸術には堪へがたく候。陽気な文学にも堪べず候。』
2月6日(火)
 今日も目をさますとから八度以上の熱で、ピラミドンを○、三宛三度ものんだが、とうとう一日八度以下に下らず、夜の九時頃になって初めて三十七度三分まで下った。一日床に行火を入れて寝てくらした。日が暮れてから小樽の姉夫婦から冷淡極まるカラ手紙の見舞状が来た。あれだけ詳しく書いてやったのに、金の無心をする積りで故意に書いたのか、少くとも針小棒大の手紙とでも思ったらしく、母が肺患だという事も信じないらしい。憤慨で憤慨でたまらなかった。
2月7日(水)
 朝飯の時、母にほんとの病名を知らした。しかし左程驚きもしなかった。『十四の時労性をやんだのだもの。』こうも言った。聞いて見ると母の親類には肺病で死んだものが少くなかった。
私はやっはり熱になやまされた。とうとう今月も何も書けぬらしい。こない
だ買った本さえ読むことが出来ない。
2月8日(木)
 せつ子が病院へ行ったあとで、私の熱は三十八度九分まで上った。ひどく汗が出たので夜にはずっと下った。
こないだ仕立屋に頼んだ寝巻がようく出来て来た。
2月20日(火)
金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかった。
 日記をつけなかった事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられていた。三十九度まで上った事さえあった。そうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまって、立って歩くと膝がフラフラする。
 そうしてる間にも金はドンドンなくなった。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝった。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たった一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかった。
 母の容態は昨今少し可いように見える。然し食慾は減じた。

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