太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

私は、母になる ~餅田千代さん~☆


「私は、母になる ~餅田千代(もちだちよ)と孤児たちの戦後~」を見ました。

被爆後の長崎で、多くの子どもの“母”となった女性がいました。(中央に写っているサザエさんのような髪形の女性が餅田さんです。)
戦災孤児施設「向陽寮」の初代寮長、餅田千代さん(1910~1991)。
300ページを超える育成記録「ひまわりの記」には、問題行動を繰り返す子どもたちに対して、千代が母の愛情と覚悟で接し、信頼関係で結ばれる様子が描かれています。

「ひまわりの記」より
「子供を叱る、叩く、出ていけと怒鳴るときは、先の先まで見通しを付けて、子供の心を受け止める網を張っておく必要があります。ただ叱るだけでは、子供の心がそのまま流れ出て、せっかくの指導が無駄になり、親の方が失敗に終わってしまう。子供の心をどこかで親の心につなぐ網を張っておきたいものです。
「晴れた日、曇った日、喜び、悲しみの連続のようなものでした。
今思えば当時の苦難の中で、子供たちと大人が懸命に生きたその生きざまは、“向陽寮”と言う名のとおり、太陽に向かうひまわりの花のように、明るく、前向きで、希望に満ちたものでありました。まさに「ひまわりの記」そのものでありました。」
「自分の子供を信じ見守っていく」
「肝っ玉が大きい、何事に対しても尻込みしない人だった」餅田千代さんの長男健(たけし)(86)さんは亡き母をこう評したそうです。
子どもたちと関わり続けた餅田さん。1991年、81歳で息を引き取った日付はくしくも5月5日の「こどもの日」でした。亡くなる前、息子健さんにこう告げました。
「みんなどうしてるかな」「ちゃんとしてるかな」
亡くなるまで、子供たちに心を向け、気にかけて、大勢の子供達を育てあげて社会に送り、子供から慕われ、心のよりどころとなっている餅田千代さんは、母の鑑です。
また、長男の健さんも、本当は母親を独り占め出来るはずなのに、戦災孤児たちと一緒に生活を共にして、子供ながらに苦労しながらも母親を助けて行ったのは立派だと思いました。
親子の信頼関係が素晴らしいです。たくさんの徳を積まれた親子です。
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