太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

 


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三章 インパール作戦

    1 インパール作戦発動の経緯 top

 こんなことで、無駄な一週間をバンコクで過ごした私は、ペナンでの休養をとり止め、年の暮れもおし迫ったラングーンに帰った。
 連日の空襲に脅かされながらも、無事に正月を祝い、昭和十九年の春を迎えた。
 しかし政、戦ともに、明るい情報はどこからも聞かれなかった。
 ヨーロッパの方からは、米・英・中のカイロ会談(注1)に続く、米・英・ソのテヘラン会談(注2)の模様が伝えられ、同盟国ドイツの敗色が決定的になりつつあることが察せられ、日本の降伏条件さえ議題となっていたことが報道された。
 (注1=昭和十八年余一九四一年十一月。ルーズベルト、チャーチル、蒋介石が出席した米英中首脳会談)
(注2=昭和十八年十二月。ルーズベルト、チャーチル、スターリンが出席した米英ソ首脳会談)


 太平洋方面の戦況をみても、制海、制空の両権を失った日本軍の劣勢はおおい難いものとなり、タラワ、マキン両島も、守備隊の玉砕によって敵の手中に落ちた(昭和十八年十一月)
 こんな暗い情報ばかりの中で、それをうち破るかのように、方面軍の参謀連中や新聞記者たちの間から、牟田口中将によるインパール攻略の景気のよい噂話が聞かれるようになってきた。
 飯田祥二郎前第十五軍司令官時代の昭和十七年八月に、第二十一号作戦として、アッサム州東北部及びベンガル湾の要港チッタゴン占領が、大本営命令として発令されたものの、諸般の情勢悪化もあってうやむやのうちに、同年十一月に至って中止の形になっていたものが、今頃になって息を吹き返したのはなにゆえだろうか。
 情報に早耳な新聞記者連中の話を総合するに、新しい形のインド進攻をめざすインパール作戦の立案推進者は、第十八師団長から第十五軍司令官に親補された牟田口廉也中将であるらしい。
 日中戦争の発端となった盧溝橋(ろこうきょう)事件(一九三七年)当時、連隊長としてこの戦闘に参加し、以後支那各地に転戦、マレー、ビルマの攻略戦にも師団長として参加、戦えば必ず勝ってきた実績に驕る同将軍は、狂的な自信家であると同時に、軍人らしい功名心に燃えると、周囲の状況を忘れて行動する猪突猛進型の人物だという定評があったようである。
 昭和十八年三月に、第十五軍司令官に就任した当時は、怒江を渡って雲南省に攻め入り、昆明を占領して重慶政府の糧道を断つことを考えていたらしいが、しばらくすると、なぜか一転してインド補給路(レド公路)の起点に目を向け、その基地ともいうべきインパール占領が蒋介石政権打倒の最良の策であると確信するに至った。
 いったん決意すると、ただちに実行に移さなければ気のすまない中将は、まず手はじめに、補給困難を理由に、まっ向からこの作戦に反対した小畑英良参謀長を罷免して、温順な久野村桃代少将を後任として迎えた。
 私は留学生時代にワルシャワへ旅行し、当時ポーランド駐在武官であった秦彦三郎中佐を訪ねたことがあったが、そのとき、武官宅で偶然にも同じ高知県出身である久野村桃代、土居明夫両少佐に会ったことがある。
 たまたま同じ日に同じ場所で落ち合った三人ともみな高知県出身だとは、全くの奇遇だというので、初対面にもかかわらず、時間のたつのを忘れて歓談じたものだったが、そのときの印象でも、豪傑タイプの土居少佐にくらべ、久野村少佐は、その桃代という名前にふさわしい女性的な優しい風貌の人だったことを覚えている。
 豪傑肌の牟田口軍司令官にとっては、まことに似合いの伴侶だったろうと思われる。
 そして、インパール作戦をともに遂行する運命にある、配下の三師団長の意見をも無視し、大本営の宮田恒徳参謀(竹田宮)や片倉衷方面軍高級参謀の反対をも退け、当初はこの作戦にあまり乗り気ではなかったらしい河辺正三方面軍司令官(注)までこの無謀な作戦の推進者仲間に引き入れてしまった。
 (注=河辺軍司令官は、盧溝橋(ろこうきょう)事件のときに、旅団長として、当時の牟田口廉也連隊長の上司であり、ともに戦った間柄であった)

 この間、方面軍、南方総軍、参謀本部との間には、幾多のやりとりがあり、賛否両論が乱れ飛んだようであったが、結局当面の遂行者である牟田口軍司令官のがむしゃらな熱意が功を奏したのか、ついに十八年八月七日には、ウ号作戦(インパール作戦)の大本営準備命令が発せられた。
 しかし、太平洋方面の戦局は日に日に緊迫の度を加えていたように、イタリアの三国同盟脱落(昭和十八年九月)後、英国府軍部隊のインド洋方面回航による英印軍のビルマ沿岸上陸企図も心配の種となって、大本営も容易に本作戦発動の決断を下すことはできなかった。
 この混迷の時期に、インパール作戦断行に踏みきらせる決定的動機となったのは、昭和十八年十一月に東京で開催された大東亜会議であったように、私には思われる。
 この会議は大東亜共栄圏内各国首脳出席のもとに開かれ、圏内各国の成果をうたい上げんとするものであり、ビルマからも、沢山大使が同行してバー・モ首相が出席した。
 しかし各首脳は、名目上は大統領や首相であっても、実質は無力な傀儡的存在にすぎなかったので、会議の空気は一向に盛り上がらなかった。
 そんな中にあって一人気をはいたのが、ドイツからドイツ潜水艦に便乗し、アフリカのマダガスカル島近海で日本潜水艦に移乗、劇的な日本入りを果たした、元インド会議派党首のスパス・チャンドラ・ボース氏であった。
 この精力的な亡命革命家は、日本に来るや否や、さっそく活動を開始し、新宿中村屋の庇護のもとに名を売っていたラス・ビハリ・ボースのあとを継いで、インド独立連盟の会長に就任、昭和十八年十月二十一日、シンガポールで行なわれた自由インド仮政府発足の会に臨み、新政府の首席に選ばれるとともに、インド国民軍最高司令官の地位にも就いた。
 そして十一月、インド仮政府の新首席として、颯爽と大東亜会議に臨んだチャンドラ・ボースは、得意の雄弁をふるって、インド独立運動に対する日本の協力を要請する大演説を行なった。
 この演説を聞いた東条首相は、チャンドラ・ボースに対し、
 「一緒にインドに参りましょう」
 と言ったほどの感銘を受けたというのだから、東条が、ボースの率いるインド国民軍がインドの土地に足を踏み入れさえすれば、こちまちにしてインド全体に反英独立運動の火が燃えあがるだろうという錯覚におちいったとしても、決して不思議ではないのである。
 このことは、大東亜会議の席上で、チャンドラ・ボースの要請に応して、日本軍占領下のインド領アンダマン、ニコバル諸島のインド仮政府への帰属を承認したことによっても察せられるが、東条首相の当時の希望的観測が最もよく表現されているのは、「ウ号作戦」(インパール作戦)に伴う東部インド占拠処理に関する総参謀長指示(昭一九・一・三〇)であろう。
 その主要な部分を抜粋すればつぎのとおりである。

 一、ウ号作戦二伴フ東部インド占領地ノ処理ニアリテハ、軍政施行ノ行態ヲ採ルコトナク、軍ハ取リ敢ヘズ治安維持其他直接作戦防衛上必要ナル処理ヲ講ズル外ハ、差シ当り在来ノ組織ヲ利用シテ地方行政ニ任セシムルト共ニ、自由インド仮政府ノ進出ニ伴ヒ、成ルベク速カニ当該政府ヲシテ之ヲ担当セシム。
 六、押収物件及ビ俘虜ハ、日本軍ニ於イテ必要トスルモノ以外ハ、之ヲ自由インド仮政府ニ移管ス。
   コノ場合、移管スベキ物件、人員ヲ総司令官ニ報告スルモノトス
 八、自由インド仮政府ノ占領地ヘノ進出ハ、成ルペク速カナラシムルモノトス。

 これらの諸事実より判断するに、昭和十九年一月七日に発動された大本営のインパール作戦発起の命令は、純戦略的見地から行なわれたというよりは、むしろ、インドの独立運動に火をつけることにより英印軍の後方攪乱を策し、あわせて、長期にわたる戦局の不振によって沈滞気味の民心を一挙にふるいたたせようという、政略的意図にもとづくものであったというべきであろう。

    2 自由インド仮政府ラングーン進出 top

 インパール作戦命令の発動によって、それまでの方面軍司令部のだれ気味だった空気が、一変して活気を取戻した。
 それは当時まだそうした事実を知らなかった私などにも感じとられたほどであり、記者連中もなんとなく緊張した参謀部の動きに気づいているようであった。
 この機運と符節を合わせたように、チャンドラ・ボース首席の率いる自由インド仮政府事務所が、ラングーンに設置された。
 独立を達成して日の浅いバー・モのビルマ政府は、この仮政府の進出に難色を示したが、沢田大使の斡旋によって、ようやくその受け入れを諒承したものの、インド国民軍の兵舎の調達その他にも、あまり好意を示さなかった。
 こんなところにも、日本人の間での人気がチャンドラ・ボース氏に傾き、バー・モ氏から離れていった原因があったかもしれない。
 ともかくも昭和十九年の一月末頃には、濃緑の軍服に身を包んだ細身、長身でスタイルのよいインド国民軍兵士の姿が、ラングーンの街のいたる所で目につくようになった。
 なにしろ一万名足らずのビルマ国防軍にくらべ、総兵力三万名というのだから、全員がビルマに進出したわけではないにしても、相当めだつ存在であったことはたしかであった。
 ビルマ進駐当時から対印政治工作専門機関であった、岩畔(いわくろ)少将を長とする「岩畔機関」は廃止され、改めてベルリン在勤時代チャンドラ・ボース氏と親交のあった山本大佐を長とする「光機関」が設置され、仕事も大幅に縮小して、施設、資材の提供など、「インド仮政府」に対する協力連絡機関となった。
 ある日、アメリカニ世で、インド仮政府関係担当の大使館員島内百史君に誘われて、チャンドラ・ボース首席の誕生祝賀会の様子を見に行った。
 シュエダゴン・バゴダ前の広場は、何千人ともしれぬインド人の黒い顔の群衆で埋まっていた。
 演説はもうはじまっており、力強く、よく透る声が、場内に響きわたり、大勢の聴衆は咳一つなく静まり返って、この大獅子吼に聞き惚れていた。
 言葉はヒンズー語らしく、内容は知るよしもないが、その情熱に満ちあふれた魅力的な美声は、意味はわがらぬながら、私の心にも強く訴える力があった。
 壇上に立って熱弁をふるっている人は、インド人とは思えないほど恰幅の良い堂々たる体格の男で、肌の色も黒くなく薄褐色で、背も高く、まっすぐに延ばした身体を軍服に包んだ雄姿は、まさに天下の偉丈夫といえるものであった。
 これがうわさに聞いていたスパス・チャンドラ・ボースを、遠くからではあるが、はじめて眺めた私の印象であった。
 演説が終ったとたんに、会場は嵐のような拍手と歓声に包まれ、それはしばし鳴り止まなかったが、やがて全聴衆の、ネタジ・チャンドラ・ボースに対する誕生祝いの献上がはじまり、壇上に置かれた大きな箱は、熱狂した群衆が先を争って投げ入れる金、銀、宝石などでたちまちのうちに一杯になってしまった。
 恐るべき雄弁の力だと思ったが、島内君の説明によると、多くのインド人からネタジ(指導者の意)として崇敬されているネタジ・チャンドラ・ボースの誕生日には、彼の体重に等しい重さの金、銀、その他の財宝が、お祝いとして贈られるならわしだという。
 おそらくこれが、台湾での彼の飛行機事故による死亡後、世界中にボースの宝箱として話題をまいたゆえんだと思われる。
 昭和五十三年十一月二十四日付け朝日新聞の「ボースの宝箱」の記事の一部を引用する。
 「ボースの副官で、奇蹟的に助かったバビブル・ラーマン大佐(パキスタンで存命中)からボースの宝箱を受け取ったムルティ・インド独立連盟東京支部長は、昭和三十四年、インド大使を通してネール首相に返した」
 このように、死亡調査に来日したコスーラ季員会は報告している。
 しかし肝心の宝箱の所在が不明なので、関係者の誰かが横領隠匿しているという噂は跡を断たなかった。
 それが昭和五十三年十月、当時のデサイ首相によって、国立博物館に保存されていることが発表され、中身も確認された。
 それによると、箱の中にはメダル、指輪、ペンダント、耳輪などの貴金属、宝石類を納めた一七個の包み(重さ約一三~一五キロ)がはいっていたとのことである。
 しかしボースの宝箱は三個あったという説もあり、この箱の行方の真相は、いまだに謎に包まれたままである

    3 インパール作戦はじまる top

 三月初め頃の記者会見で、一月に新しく編成された第二十八軍(軍司令官・桜井省三中将)による、ハ号作戦(注)開始について、磯村少将から詳しい話があり、花谷師団(第五十五師団)所属の桜井兵団(長は桜井徳太郎少将)が、奇襲突進して英印軍第七師団の本拠トングバザーの占領に成功したことが、久しぶりの朗報として記者連中を喜ばせ、桜井少将の中国大陸での奇策縦横の戦いぶりが、おもしろおかしく披露された。
(注=インド東南部ベンガル州方面からわが軍のマユ半島陣地とアキャブを占領せんとして発起された英印軍の攻撃を破砕せんとする作戦。
    しかし実際には近く発起予定のインパール作戦を牽制するための作戦であった)

 そのつぎの会見では、敵第七師団主力をシンゼイワ盆地で完全包囲したとの朗報が伝えられて、我々を喜ばせた。
 これまでの戦闘では、包囲におちいった英印軍は、数日中には必ず降伏して捕虜となるのが慣例になっていたので、包囲は即、勝利を意味していたからである。
 しかしその後の磯村武官の談話によると、
 「包囲されて降伏するはずの敵は、空軍によって豊富に食糧弾薬の補給を受け、砲兵隊を中心に、周囲に戦車隊を配して、随時出撃してくるので、補給困難な山中にあるわが軍の方が、かえって大きな損害を蒙るにいたった。
 機を見るに敏な桜井兵団長は、状勢の不利を悟って包囲を解き、いちはやくプチドン~モンドウの線に復帰したのでことなきを得た」とのことであった。
 その後、インパール作戦の継続中、われに倍する優勢な敵の攻撃に悪戦苦闘しながらも、第二十八軍は、よく第十五軍の側面掩護という所期の目的を達成したのであるが、その裏には鬼師団長と怖れられた花谷中将と、奇策縦横で豪胆無類の桜井少将との名コンビの功績大なることを忘れてはならないであろう。

 三月初め、沢田大使に呼ばれた私は、はじめて間近に迫ったインパール作戦の概要を聞かされた。
 四月二十九日の天長節に予定されているインパール占領に的を合わせたこの大作戦は、太平洋戦争全体の帰趨を決するものであり、またインド独立の確実な基礎をなすものであるとの趣旨で、煽情的な大使声明案文を準備するようにとの命令を受けた。
 もしこの作戦が予期したとおりの戦果を収めうるならば、昭和十七年後半以来、「転進」と玉砕の連続に、意気消沈の大本営を活気づけ、また生活の困窮化と戦局の不安に悩む国民に光明をもたらすことほ間違いあるまい。
 しかしもしそれが逆目に出た場合には、現在かろうじてバランスを保っているビルマ戦線が、全面的に崩壊するばかりでなく、太平洋戦争全体を破局に追いこむ結果にもなりかねない。
 そのうえ、このインパール作戦については、ラングーン着任以来、各方面の人々から、あまりに多くのことを聞かされすぎていた。
 それも、どちらかといえば楽観材料よりも悲観材料が多かった。
 まず印緬国境の地図を見れば、南北に長いだけでなく東西にも厚いアラカンの重畳たる大山系が目に浮ぶ。
 補給がきわめて困蟯であることは、この点を指摘して作戦に反対し、転勤させられた小畑参謀長ならずとも、誰の目にも明らかであった。
 制空権が敵の手中に移ったことは、この頃一日数回の定期便となった敵の空襲に対する、わが方の反撃ぶりによっても知られるところであった。
 空軍の掩護のない現代の戦闘がいかに惨めなものであるかは、太平洋上の島々でいやというほど経験させられたはずなのに、牟田口将軍には、これらに対処する奇策妙案でもあるのだろうか。
 考えれば考えるほど私の頭には疑問の黒雲が次から次へと湧きあかってくるのだが、今となっては、ただ大使命令の声明文を書き上げて、その発表が一日も早からんことを祈るほかはなかった。
 三月中旬の記者会見の席で、磯村武官が、いつもと異なった緊張したおももちで、「第十五軍所属の第三十三師団(師団長・柳田元三中将)が三月八日に、第十五師団(師団長・山内正文中将)と第三十一師団(師団長・佐藤幸徳中将)が三月十五目に敵機の妨害を受けることもなくチンドウィン河渡河に成功し、全軍が幸先のよいインパール作戦のスタートをきったことを告げた。
 なお引続いて武官は、本作戦にはインド国民軍も参加し、その第一師団が、わが第三十三師団と連繋をとりながら進撃中である旨を、重大ニュースとして力強く伝え、そのあとで、ことのついでのような軽い調子で、三月五日、英軍の空挺部隊が、第十五軍主力後方のイラワジ河両岸地区に降下したことを述べた。
 この空挺部隊降下を重大事件とみて、記者連中が質問を集中したが、武官は「すでに討伐部隊をさし向けて対策を講じているので、心配はいらない」の一点ばりで、この問題に深入りすることを避けた。
 やがてこの降下部隊は、ウィンゲート少将の指揮する空挺兵団であり、日本軍が当初に考えたような小部隊ではなかったことが判明し、そののちも次々に討伐の兵力を送りこんだが効果なく、ただでさえ困難であった後方補給に致命的打撃を受けるに至ったのである。
 しかし、その後毎日行なわれるようになった記者会見では、予想以上に迅速な各師団の進撃ぶりが知らされ、第十五軍将兵の勇戦敢闘が讃えられるとともに、牟田口将軍の牛・馬・羊を伴って進軍するジンギスカン戦法や、敵の虚をついて突進する鵯越(ひよどりごえ)作戦の成功が話題となったりして、会見室は勝利を喜ぶ歓声に満ちるようになった。
 そして四月になって間もなくディマプール~インパール街道上の要衝コヒマが佐藤中将の第三十一師団によって占領された(四月六日)ことが知らされると記者連中もいっせいに沸きたち、この作戦に懐疑的であった人々までが喜色満面となって自分の不明を恥じ、インパール占領疑いなしと信じこ杼ようになった。
 懐疑派中の一人だった私も、記者仲間の知恵を拝借しながら、大使声明案文の作成を急ぎはじめた。
 だがコヒマ占領後、新しい戦況の発表がないまま数日過ぎた頃から、磯村武官の端麗な顔にも心なしか憂色が漂いけじめたように思われた。
 もうずっと前に、インパール盆地に突入しているはずの第三十三、第十五両師団の行動についても、何も知らされないままに四月二十九日の天長節を迎えたが、インパール占領の発表はなかった。
 これに関する記者の質問に対し、磯村武官は「予定が少し遅れているだけ」と答え、北沢参事官は「戦争には相手があるのだから、そういつも判で押したように正確にゆくものではないよ」と言って、軽く身をかわした。
 戦況の発表もないまま、記者会見も間遠になり、五月も半ばを過ぎた。
 雨季が早いというインド東北部の戦場あたりは、もうそろそろ雨季の到来を告げる頃と思われた。
 そしてその頃から少しづつ、補給のとだえた前線部隊の悲惨な戦闘状況や、前々から噂されていた牟田口軍司令官と隷下三師団長との間の不和が苦しい戦闘の中で表面化し、ついに正面衝突にまで発展した話などが、私の耳にまで届く状況になった。
 六月にはいってしばらくすると、佐藤第三十一師団長が、軍命令にそむいてコヒマを放棄、独断で退却行動に移ったことが、新聞記者仲間から伝えられた。
 軍がいかに秘密にしようとしても、各師団には報道班員が配属されて、行動をともにしているのだから、事実の隠蔽が容易でないことは当然のことといえよう。
 防衛庁戦史室著『インパール作戦』によっても、五月末までには、すでに参加三個師団全部が潰滅的打撃を蒙り、以後の作戦遂行は絶望状態におちいっていたことが記されている。
 五月上旬、ビルマ戦線を視察した秦彦三郎参謀次長が、戦後になって語ったという次の談話(前掲戦史室資料による)によっても、この点は推察できる。

 ラングーンで河辺将軍と二人きりで懇談した。
 私は「今の状態では、インパール作戦は中止した方がよいと思うがどうか」ときり出したところ、河辺将軍もハッキリと「中止せざるをえないかもしれぬ」といった口吻で語っていた。
 また「この作戦は失敗だった」とももらしていた。
 ビルマに行く前、南方軍で飯村穣総参謀長に会ったときも、私は、「インパール作戦は中止したらどうか」と話した。
 飯村中将も私の申し出に同感のような話しぶりであった。
 私は、南方軍も方面軍も、ともに私の考えに同意したものと思い、帰京した。
 帰って東条総長に報告したところ、満座の中で叱責された。
 私は、人々の前で総長と次長が口論しても……と思い、黙って ひき下がった。

 それなれば、じゅうぶん情勢を把握しているはずの、大本営、南方総軍は、なにゆえに執拗に攻勢続行を主張し続け、ついに撤退の時機を失った第十五軍が潰乱状態におちいるまで、作戦中止の命令を出し渋ったのであろうか。
 それは、この作戦は元来、現地軍司令官である牟田口中将の人並はずれた功名心と、無暴きわまる作戦感覚によってひき起こされたものではあっても、政府と大本営の支配者である東条首相にとっては、インドの独立によって戦局の大転換を図らんとする政略戦の意味が強かったので、引くに引けない立場にあったものと考えざるをえないのである。
 この間の微妙な事情をもっとも雄弁に物語るものは、戦後に、河辺ビルマ方面軍司令官がもらしたつぎの述懐である。

 当初、全く純戦略的に出発した作戦ではあったが(注1)、中途からこれに少なからぬ政略的意図が加重してきた。
 (注1=この河辺将軍の見解には、多大の疑念をさしはさまざるをえない=筆者)
 その結果、本作戦の指導はその本質のいかんにかかわらず、なんとしても政略的考慮を除いては実行しえない傾向を生じてきた。
 さらにこれにくわえて、当時の大東亜全般の頽勢を考え、せめてこの作戦だけは勝利をおさめたいとの念願が、日本側指導者の上下に一員していた。
 その最も明らかな、かつ最終的な現われは、作戦終末の指導であった。
 前線部隊及び現地作戦軍が、すでに持ち札を切りつくし、苦況におちいっているのを知りつつも、作戦終結に決するまで相当の時日を遷延したのは、結局本作戦の内外に及ぼす政略的意義にとらわれた跡のあることは認めざるをえない。
 いわばチャンドラ・ボースの壮図を見殺しにできぬという苦慮が、純正な戦略的判断を誤らせたのである。
 前線の作戦指導に変調を生じ、異常なできごとが発生(注2)しているにもかかわらず、南方総軍または大本営から、これまた常軌を逸したと思われる指示や督励がしきりに出された。
 (注2=佐藤第三十一師団長の抗命退却をさしたものか=筆者)
 そしてこの戦略的判定と政略的無理押しとの均衡の破れたのが、この作戦の終末であった。
 これは要するに、本作戦の悲惨きわまる終末は、ボースを活かさんとする念願による日本軍最後の頑張りが、少なからず影響していたことは否みがたい(注3)
 (注3=日本軍が退却を開始したあとまで、インド国民軍が、インド国内に踏みとどまることを、ボースが主張したことは事実であるが、日本軍がこれに義理をたてて、作戦を変更したとは思えない。 しかし大本営の作戦中止命令遅延の一因をなしたことは事実ではあろう=筆者)

    4 作戦失敗とその余波 top

 インパール作戦の失敗とともに、第十五軍の萱面掩膳のために、フーコン谷地で悪戦苦闘を続けていた第十八師団(師団長・田中新一中将)もついに力つきで、次第に南方に後退をはじめ、雲南方面にあった第五十六師団(師団長・松山祐三中将)も、十数倍の兵力を有する重慶軍の攻撃を受けて、怒江西岸方面に圧迫されつつあった。
 要するに、インパール作戦に直接参加したのは第十五軍ではあっても、第二十八軍は側面掩護に、第三十三軍(注)は後方掩護と、間接的にこの作戦に参加していた。
 (注=昭和十九年四月、第五十六、第十八両師団をもって編成。軍司令官・本多政材中将)
 このため、インパール作戦の敗退によって、わずかに第二十八軍がかろうじて旧防禦陣地を死守している以外、ビルマ方面軍は全軍総崩れの状態となり、早急に防衛体制をたて直す必要に迫られることになった。
 これにくわえて、七月七日には、日本本土の玄関先ともいえるサイパン島も、守備軍の玉砕によって米軍の手中に落ちたとの悲報が伝わった。
 またヨーロッパ戦線では、六月にノルマンディ海岸に上陸した連合軍が、パリを解放したのち、東方からするソ連の攻撃に呼応して進撃中であり、ドイツの運命も、もはや最後の段階を迎えつつあることが、外国通信によって華々しく報道されていた。
 インパール作戦の緒戦の戦果に、一時的に沸き立っていた気分も、その悲惨な結末とともに急速に冷えこみ、前途暗澹たる戦争のなりゆきを考えると、誰の心も冷たく暗く沈んでゆくらしく、いつもは威勢よく談論風発を好む記者連中さえ、言葉少なく黙りがちになったようであった。
 ただ、戦況は悪化したとはいっても、前線からは遠く離れているラングーンでは、食糧事情が少し悪化したのと、インフレの昂進が少しスピードを早めたぐらいで、街中の空気はまだ平静を保ち、将校用の料亭粋香園では、前線の兵士たちの飢餓も知らぬ気に、美女をはべらせていた。
 そうした高級将校連の華やかな酒宴が夜ごとにくり返されていた。
 私も参謀連との会合の際、何回かこの粋香圉の宴席に顔を出したことがあるが、立派な日本座敷に美酒佳肴がならび、芸妓まではべった豪奢な宴は、ビルマに来る直前の北支出張中の、北京や張家口あたりの料亭のありさまを思い出させ、なんとも割りきれぬ気持で、居心地の悪さを感じた。
 こんな戦地に似合わぬ贅をきわめた淫楽こそ、軍人の魂をむしばみ、軍隊の弱体化をまねく最大の癌ではなかっただろうか。
 緒戦において、マレーやビルマで日本軍と戦った英印軍のあっけないほどの弱さが、植民地駐屯中の、贅沢三昧な生活に起因するものであったことに気づいている将帥はいなかったのだろうか。
 巷間伝えられるところによれば、インパール作戦の開始後一ヵ月近くたっても、その最高指揮官である牟田口将軍は風光明眉なメイミョウの司令部にあって、毎夜、酒と女に酔いしれていたというではないか。
 これではいかに軍司令官が大言壮語しても、戦いに勝てるはずはなく、隷下三師団長の全員にそむかれたのも、痩せ衰えた身体でボロ服をまとい、幽鬼のような姿になってジャングルを彷徨する兵隊たちの口から、「牟田口を殺せ!」という呪いの言葉が聞かれたというのも当然であった。

 七月にはいってからは、恒例の記者会見も全く開かれなくなり、大使館内ではインパールの話はタブーのようになり、誰の口にものぼらなくなった。
 その頃、誰からともなく牟田口将軍の東京転勤の噂が聞えてきた。
 そんなある日、所用でミンガラドン飛行場に赴いていた島津総領事と私は、そこで思いがけない光景を見ることになった。
 それは敗戦の責めを負うべき牟田口中将の、華やかな内地帰還の光景であった。
 たくさんの将官や参謀たちに見送られ、大量のぶん取り品とも思われる品々を飛行機に積みこんでの出発は、まさに凱旋将軍さながらの姿であった。
 私たちはこのありうべからざる光景に、ただ茫然として声もなかった。
 「一将功なり万骨枯る」と詠じて慨嘆しただけでなく、自責の念抑え難く、ついには自らの命をさえ断ってしまった乃木大将のような人もあるというのに、この牟田口将軍の神経は一体どうなっているのかと、ただただ呆れるばかりであった。
 大使館に帰った私は、万事終ったと判断し、インパール作戦開始以来、戦況の変化に応じて書き改めたり書きくわえたりした、大使声明の案文原稿を、大使には無断で引き裂き焼き棄てた。

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 パールハーバー ――「われ奇襲に成功せり」
 (A・J・パーカー著、中野五郎訳 第二次世界大戦ブックス1 1969年刊)

別ページ
 1 序幕
2 連合艦隊司令長官 山本五十六提督
3 Z作戦 パールハーバー攻撃
4 戦争は避けられなくなった
5 オアフ島の日本人スパイ活動
6 居眠りしいている巨人アメリカ
7 ハワイ攻撃の準備段階
8 空毋機動部隊出航す
9 卜・卜・卜の連送無電「全軍突撃せよ」
10 猛火につつまれたオアフ島
11 奇襲の原価計算
12 エピローグ
 「近代史上で、戦争が一方の側によるかくも殲滅的な勝利によって開始されたことは未だかつてなかった。
 そしてまた人類史上で緒戦の勝利者がその計画した奇襲に対して、終局にはかくも高価な代価を支払ったことも決してなかった。
 わずか一瞬の間に、アメリカ合衆国は不安定な中立から全面的な交戦状態に突入した。
 かくて12月7日(米国時間)は、1351日間にわたる大戦争の第一日となったのだ。」 
              サミュエル・モリソン博士
はじめに
1 日露の先例にならった奇襲
2 パールハーバーの攻撃目標
3 日本の奇襲で米国の世論硬化

付録1
 「Z作戦」の経過表

付録2
 真珠湾攻撃による米軍損失概要

 主要文献一覧表
 (著者)A・J・バーカー
英国陸軍大佐。ソマリランド、エチオピア、ビルマ、中東、マレー各地の戦闘に参加。
1958年退役、戦史・戦術の研究に専念。
1968年まで英王立原子力公社に勤務。
本書は従来の米国側のパールハーバー文献とはちがった英国戦史家の公正な見方を示している。
(監修)バジル・リデル・ハート卿
 軍事問題の世界的権威。
第一次大戦に従軍、英陸軍を大尉で退役。
はやくから軍の機甲化陸海空軍の立体作戦を提唱、軍の近代化に貢献。
ドイツ機甲軍団の創始者グーデリアン将軍、砂漢の鬼将軍ロンメル元帥、フランスのドゴール大統領もハート卿の「戦車論」に強く影響されたといわれる。
軍事関係の著書は30冊以上にのぼる。

はじめに  パールハーバー大奇襲の致命的な欠点   バジル・リデル・ハート卿 top

 一九三一年(昭和六年)以降、日本人は、国内紛争で弱くなった中国人を犠牲にすることによって、さらにその領域内の米・英両国の権益に損害をあたえて、アジア大陸本土にその足場をひろげるため精力的に努力していた。
 その年に彼らは満州に侵入して、そこを日本の衛星国につくりかえた。
 さらに、日本軍は一九四〇年(昭和十五年)に行われたヒトラーのフランスおよび低地国地方(オランダ・ペルギー・ルクセンブルグ三国)征服にならって、フランスの孤立無援を利用し、脅迫のもとでフランス領インドシナ(当時の通称仏印)の日本軍による「保護的占領」を同意させたのである。
 この報復としてルーズベルト米大統領は、一九四一年(昭和十六年)七月二十四日に、日本軍の仏印からの撤兵を要求した。
 そして大統領はその要求を強行するために、米国内にある日本資産全部を凍結し、また日本むけの石油供給をいっさい禁止する命令を、七月二十六日にくだした。
 これと同時に、チャーチル英首相も同じような措置をとった。
 さらに二日後には、ロンドンに避難中のオランダ亡命政権もこれにならうように足並みをそろえた。
 これはチャーチル首相自身が言明したように「日本はこの一撃で、死活的な石油の供給をうばいとられた」ことを意味した。
 すでに早くから、遠く一九三一年(昭和六年)にさかのぼり、論議されていたことであるが、このような日本の軍事力をマヒさせるような一撃は、日本に戦うことを強(し)いるであろうと、常にみとめられていたのであった。
 戦争にとってかわるただ一つの道は、日本が屈服するか、それともその大陸進出の国策を放棄するほかはなかった。
 だから日本が武力で反撃することを四ヵ月以上ものばして、そのあいだに米・英・蘭三国の石油の対日輸出禁止を解除するように交渉をこころみたのは注目すべきことである。
 米国政府は、日本がインドシナから撤退するだけでなく、中国からも撤兵しないかぎりは、石油の対日輸出禁止を解除することを拒否した。
 いかなる国の政府も、とくに日本政府はもっとも望みうすであったが、このような屈辱的な条件をうのみにすることは、とうてい期待できなかった。
 それゆえこの七月の最後の週間以後は、いつなんどきでも太平洋で戦争がおこることを予期するのは、充分な理由があった。
 このような情勢のなかで、米・英両国は日本軍が武力攻撃するまでに四ヵ月の猶予期間を許されたのは、むしろ幸運であった。
 しかしこの貴重な幕あいの休止期間を、防衛準備のためには、ほとんど有効に利用されなかった。

1 日露の先例にならった奇襲 top

 さて一九四一年十二月七日(日本時間は十二月八日)日曜日の朝、航空母艦六隻「赤城」「加賀」「蒼竜」「飛竜」に「翔鶴」「瑞鶴」からなる日本海軍部隊はハワイ諸島にあるアメリカ海車基地バールハーバー(真珠湾)に粉砕的な航空攻撃を決行した。
 この一撃は宣戦布告の以前におこなわれたものであり、それは一九〇四年(明治三十七年)旅順口にたいして、日本が対ロシア戦争の火ぶたをきった当時の奇襲の先例にしたがったわけである。
 (日露戦争の場合、日本は明治三十七年二月四日の御前会議で、対露外交交渉をうちきり開戦を決定し、六日にロシア政府に交渉断絶を通告した。そして八日から九日にかけて、朝鮮仁川沖および旅順港のロシア艦隊を奇襲攻撃し、翌十日はじめて宣戦布告をした)
 一九四一年のはじめまで、対米戦争の場合にそなえた日本の作戦計画はフィリピン群島にたいする攻撃と同時に、フィリピンに駐屯する米軍守備隊を救援するため太平洋を横断して来航する米艦隊の進出をむかえうつ目的で南太平洋に配置された日本海軍の主力艦隊で対決することであった。
 それはまた米軍側でも、日本艦隊のとるべき行動として予期しつつあった。
 しかしながら、日本海軍の山本五十六提督はいつのまにか新しい作戦計画すなわちパールハーバー奇襲の構想をうみだしていた。
 それは攻撃機動部隊が、千島列島を経由して遠まわりに接近し、北方からハワイ諸島めざして探知されずに南下し、日の出前にパールハーバーから約四八〇キロはなれた位置から三六〇機の飛行機で攻撃をかける、という秘策であった。
 これによって、太平洋上にある米・英・蘭三国の各領土にたいして、妨害されないで海上進攻(大規模な上陸作戦)を敢行できるように、進航路が切りひらかれて安全が確保される。
 それで日本軍の機動部隊主力がハワイ諸島に向かって北東方へ高速進航しているあいだに、他方では別の日本艦隊が軍隊輸送の護送船団を護衛しながら南西太平洋を進航中であった。

2 パールハーバーの攻撃目標 top

 パールハーバーの攻撃目標は、その重要性の順でつぎのとおりであった。
① 米航空母艦(日本軍は多ければ空母六隻、すくなくとも空母三隻が在泊しているように望んでいた)
② 米戦艦群
③ 燃料用の石油タンクその他軍港施設
④ ボイラー、ヒッカム、ベローズの各主要航空基地にある陸、海軍機
 かくてハワイ攻撃機動部隊主力は、十一月二十二日に千島列島のヒトカップ(単冠)湾に集結して、二十六日に出航した。
 十二月二日、機動部隊はパールハーバー攻撃命令が確認されたという急電を受信した。
 それで各艦は燈火管制をして警戒配備についた。
 しかしそれでもなお、もし十二月六日以前に同部隊が発見されたら、あるいはもしワシントンにおける日米交渉が協定にたっしたら、この奇襲の重大使命は放棄されるという条件づきであった。
 ところが攻撃決行の前夜、十二月六日(米国時間、土曜日)にパールハーバーには米航空母艦が一隻も見あたらないという緊急無電を接受したので、機動部隊では、おおいに失望した。
 それは意外ではあったが、実際に米空母の一隻「サラトガ」は修理のため米本土のカリフォルニア州沿岸の海軍工廠にあり、また他の空母一隻「レキシントン」は爆撃機をミッドウェー島に輸送中であり、さらにのこる空母一隻「エンタープライズ」は戦闘機をウェーキ島に送りとどけたばかりで、ちょうど帰航中であった。他の三隻は大西洋方面に配属されていた。
 しかしながら米戦艦八隻は たしかにパールハーバーに入港していることが急報された。
 しかも魚雷防御網もはっていないことが知らされたので、機動部隊最高指揮官南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)はいよいよハワイめざして進撃する決心をかためた。
 その翌朝(十二月七日)各航空母艦搭載の飛行機は○六〇〇~○七一五(ハワイ時間)、パールハーバーの北約四四〇キロの洋上から発進した。
 パールハーバー攻撃は○七五五から開始されて、○八二五までつづけられた。
 それから急降下爆撃機と水平爆撃機で編成された第二波が、○八四〇に攻撃した。
 しかし第一波の雷撃機隊の使用が決定的要因であった。米戦艦群のうち五隻が撃沈、三隻が大破された。
 また米軍機のうち一八八機が破壊され六三機が損害をうけた。
 日本軍側の損失は、特殊潜航艇五隻は別として、わずか二九機が撃破され、七〇機が損害を受けただけだった。
 この特殊潜航艇は、湾の内外で攻撃中に喪失したものだが、それは完全な失敗であった。
 人的の死傷者数は、米国側が戦死、戦傷をあわせて三四三五人であった。
 一方、日本側の数字はもっと不確実であるが、戦死者は一〇〇人以下であった。
 攻撃をおえて、それぞれ各航空母艦に帰投する日本機は、一〇三〇から一三三〇のあいだに着艦した。
 かくてパールハーバー攻撃機動隊主力は十二月二十三日に日本へ帰着した。

3 日本の奇襲で米国の世論硬化 top

 この大奇襲は、日本に大きな利益をもたらした。すなわちアメリカ太平洋艦隊は完全に戦闘力をうしなってしまった。
 それで日本軍の南西太平洋方面の作戦行動は、米海軍の妨害にたいして安全を確保された。
 また一方では、パールハーバー攻撃機動部隊が、いまや南太平洋作戦を支援するために使用できるようになった。
 日本軍の致命的な欠点は、最大の攻撃目標である米航空母艦(複数)をとりにがしたことであった。
 そしてまた燃料用の油槽地帯や、その他の重要施設を見のがしたことであった。
 パールハーバーこそ、ただ一つの全艦隊を収容できる大海軍基地であったから、もしそれらが破壊されたら米艦隊の回復はもっとおくらされたであろう。
 それにしても、日本軍の一撃は、あきらかに宣戦布告前の奇襲として、全米にすごい怒りをかった。
 米国の世論は、たちまち日本にたいする強烈な怒りをかりたてたのである。
   (注=文中の○七一五、一三三〇は、それぞれ七時十五分、十三時三十分を示す。以下同じ)

付録1――Z作戦の経過表 top

◇一九三九年
(昭和十四年)
八月  山本五十六海軍大将、日本帝国海軍連合艦隊司令長官に任命される。
◇一九四○年
(昭和十五年)
四~五月 連合艦隊は、航空攻撃に主眼をおいた演習を実施。
十一月十一日 英国海軍雷撃機は、地中海のタラン卜港に停泊中のイタリア艦隊に、大胆な夜間攻撃を敢行、戦艦三隻を撃沈。
十二月 パールハーバーに、魚雷防止絹を設置すべきであるとの提案が拒否された。
     山本長官は、パールハーバー攻撃についての構想を草鹿参謀長に打ち明ける。
◇一九四一年
 (昭和十六年)
一月二十七日 クルー駐日米大使は、日本がパールハーバーの奇襲を計画しているとの噂を東京から報告。
二月一日 ハズバンド・E・キンメル海軍大将はJ・O・リチャードソン大将の後任として米太平洋艦隊司令長官に就任。
(リチャードソン大将は艦隊をパールハーバーに留めておくことに反対、艦隊を米西部海岸へうつすことを、つよくもとめた)

二~三月 東京で「Z作戦」計画立案に着手。
二月七日 ウォルター・C・ショート中将、ハワイ方面陸軍司令官に就任。
二月十四日 ルーズベルト大統領は新任駐米大使野村吉三郎提督と会見。
三月八日 米国は、一九四〇年九月の日独伊三国同盟に反対する諸国に援助を与える武器貸与法案を可決。
四月九日 野村大使は日米交渉解決のための第一次日本案を提出。そのご一九四一年十一月二十日まで、いくつかの提案を定期的に提示したが、どの提案も米国にとって受諾しがたいものであった。
四月十五日 米国は中国に武器貸与法による援助をはじめる。
六月二十日 米国は、英国およびラテンーアメリカ諸国を除くすべての国にたいし、大西洋およびメキシコ湾諸港からの石油の積み出しを禁止。
七月二日 日本、百万人を召集。
七月二十四日 フランスのビシー政権の同意の下に、日本軍は仏印南部に進駐。
七月二十六日 ルーズベルト大統領は米国内の日本資産を凍結し、日本船にたいし、すべての米国の港を閉鎖、石油製品の日本への売却を禁止した。(この結果、日本は軍隊を中国および仏印から撤退せよという米国の要求に屈するか、あるいは、かわりの石油供給源をもとめねばならなくなった)
七月二十五日キンメルとショートは「日本にたいして制裁が加えられても、日本がただちに敵対行動をとるとは考えられない」との通告をうけた。
八月六日 野村大使はあらたに日本案を提示した。それは日本が仏印以南に前進しないことに同意し、また米国が日本との自由貿易を復活し、中国への援助を中止し、日本に有利な条約をむすぶよう中国を説得し、仏印における日本の権益をみとめるならば、日中条約が成立したときに、仏印からも撤兵するというものであった。
八月九~十二日 ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は大西洋憲章について意見一致した。
八月十七日 ルーズベルト大統領と首脳会談をひらきたいとの近衛首相の提案にこたえて、ル大統領は基本的原則についての合意がまず大使級の会談で得られねばならないと主張した。
九月六日 日本の御前会議で、もし米国との協定が十月はじめにできなければ、開戦と決定。
九月二十四日 米国は東京からホノルルの日本総領事にあてた陪号無電を傍受、それはあらたに分類指示した水域割りにしたがってパールハーバーの米艦艇を報告するよう命じたものである。
十月九日 米田は九月二十四日に傍受したパールハーバーを水域割りした情報暗号を解読した。
(数ヵ月のうちに、米軍は日本の極秘外交暗号「紫」やスパイの行動を指示するに用いられる暗号を解読できるようになった。
しかし暗号が解読され、翻訳されるのに、数週間もおくれることがしばしばあった。
この解読した文書は「マジック」と名づけられて、かぎられた数の米高官にのみ配布された)

十月十六日 近衛内閣総辞職。東条英機陸軍大将が首相になり、新内閣を組織、外相は東郷茂徳。
スクーグ海軍作戦部長、キンメル長官に日本の攻撃はありうると警告。
十一月三日 クルー大使はワシントンへの電信で「日本の行動は米国との武力衝突を不可避ならしめているが、これは突然また劇的なやり方でおこなわれるかもしれない」と報告。
十一月五日 山本司令長官は連合艦隊に極秘命令第一号をだした。それにはパールハーバー攻撃のくわしい計画をふくんでいた。日本の枢密院は、米国に新しいいくつかの提案を出すことを認めた。
十一月二十日までに両案とも米国によって垣否された。米国は、東京から野村大使あての対米交渉の期限を十一月二十五日にするむねの暗号無電を解読した。
十一月十五日 来栖特使が米国との交渉にあたっている野村大使を助けるためワシントンに到着。
米国は、東京からホノルルの日本総領事にあてた暗号無電を解読。それは、不定期的に週に二回、パールハーバーの艦隊についての報告を送るよう訓令したものであった。
十一月十七日 クルー大使は、日本は奇襲攻撃をしかけるかもしれないとの報告を東京からワシントンに打電。
十一月二十日 野村、来栖両大使日本の最終提案を示す。
十一月二十二日 米国は東京から野村、来栖両大使にあてた無電を解読。それは十一月二十五日の期限が十一月二十九日まで延ばされたこと、それ以上の延期はありえないとのべていた。
十一月二十四日 スクーグ海軍作戦部長はキンメル長官に日本の奇襲は可能性があるとしらせた。
十一月二十六日 南雲中将のひきいる日本機動部隊は千島の単冠湾を出航、オアフ島北方約三六〇キロの攻撃隊発進点にむかう。
ハル米国務長官は野村および来栖両大使に、十一月二十日の日本側覚書にたいする米国の回答を手交。
十一月二十七日 スクーグ海軍作戦部長とマーシャル陸軍参謀総長はそれぞれキンメルおよびショートにたいし、日本との外交交渉は不調になり、日本の攻撃が予期されるむねを通告した。
 (十一月二十七日から二十八日にかけ、米陸軍省は三通の通信でハワイにおける日本側の妨害工作にとくに注意するように通告している)

スクーグ作戦部長は、キンメル司令長官にウェーキ島とミッドウェー島にそれぞれ飛行機二五機をできるだけすみやかに引き渡すことを提案した。
東京は野村、来栖両大使に、米国との交渉の決裂はいまや不可避だが、しかし交渉が決裂したという印象をあたえないよう訓令した。
十一月二十八日 キンメル司令長官は、パールハーバー付近を潜航中の潜水艦は敵性とみなすよう命令。
十一月二十九日 米国は、東京からハワイの日本総領事あての無電を解読、それはパールハーバーにおける艦艇の動きを報告するよう命じたものでもった。
十一月三十日 日本の閣議は、一四項目の覚書を承認した。これは十一月二十六日の米側提案に回答するためにおくられることになっていた。天皇は覚書が敵対行動のはじまる前に提示されねばならないと主張した。
十二月一日 日本枢密院は、御前会議をひらきパールハーバー攻撃を認む。
十二月二日 米国は、暗号を破棄するように訓令した東京からワシントン日本大使館にあてだ無電を解読。
十二月六日 米国は、ホノルルの日本人の手先が東京に報告した「ここを奇襲するかなりのチャンスがのこっている」との無電を解読。また第二信は艦艇と飛行機による哨戒はおこなわれていないようだ」とのべている。(後者は十二月八日まで解読できなかった)
午前九時三十分ごろまでに、ルーズベルト大統領は、日本側の一四項目提案の大部分を解読した。
この覚書は、指示した時間までには、米国側に手交してはならないと大使に訓令していた。
十二月七日 午前九時二十分(ワシントン時間)(ホノルル時間午前三時五十分)掃海艇「コンドル」はパールハーバーの港外で潜水艦の潜望鏡を発見。
午前十一時ごろ(ホノルル時間午前五時三十分ごろ)米陸軍参謀総長と海軍作戦部長は、日本の一四項目覚書の最後の部分と、この覚書はワシントン時間午後一時(ホノルル時間午前七時三十分)に手交されねばならない、との東京電を解読した写しをうけとる。
午後零時十八分(ホノルル時間午前六時四十八分)参謀総長はショート司令官に、日本側覚書の伝達時間を指示した電報を打電。この警告は、ショートにもキンメルにも攻撃のあとになってとどいた。
午後零時十五分(ホノルル時間午前六時四十五分)駆逐艦「ウォード」はパールハーバーの港外で一隻の潜水艦を沈めた。
午後一時二十五分~一時五十五分(ホノルル時間午前七時五十五分~八時二十五分)日本の第一次攻撃隊はパールハーバーの米戦艦群を攻撃。
午後一時五十五分(ホノルル時間午前八時二十五分)日本の第二次攻撃隊パールハーバーを攻撃。
午後三時十五分(ホノルル時間午前九時四十五分)日本機引きあげる。
日本はまたフィリピン、香港、マレーに攻撃を開始。
午後四時(ホノルル時間午前十時三十分)日本は米英に宣戦を布告した詔勅を発表。
十二月八日 米国議会、対日宣戦布告決議案を可決。
英国、日本に宣戦を布告。
十二月九日 ノックス海軍長官、パールハーバーの損害を調査するためハワイヘむかう。
十二月十一日 三国同盟の条件にしたがい、独伊は米国に宣戦を布告、米国また独伊に宣戦を布告。
十二月二十四~二十六日 パールハーバー攻撃の機動部隊、日本に帰還。

付録2――パールハーバーの損害概要 top

  一九四一年十二月に、米太平洋艦隊には主力艦一二隻、すなわち戦艦九隻と航空母艦三隻が配属されていた。このうち空母をのぞき八隻の戦艦が十二月七日朝パールハーバーに停泊していた。(戦艦「コロラド」はブレマートンの海軍造船所におり、空母「エンタープライズ」はウェーキ島からパール(Iバーへの帰途にあった。また空母「レキシントン」はミッドウェー島に飛行機を輸送しており、空母「サラトガ」は米西部海岸で修理していた)

◇攻撃の結果
 攻撃当時パール(Iバーにいた総計九六隻の艦船のうち一八隻が沈没または大破した。

①戦艦
 「アリゾナ」=沈没。その前部弾薬庫爆発のため。
 「オクラホマ」=転覆沈没。(のちに港から妨害物を除去するために引きあげられたが、オアフ島沖にふたたび沈められた)
 「カリフォルニア」「ウェストバージェア」=両艦とも後部甲板が浸水し、停泊地点で沈没した。(のちに引きあげられて修理された)
 「ネバダ」=港の妨害にならないよう浅瀬にのりあげた(のちに修理)
 「ペンシルベニア」「メリー・フンド」「テネシー」儿二艦とも被害をうけたが、それほどひどいものではなかった。

②標的艦
 「ユタ」(元戦艦)=沈没。

③ 巡洋艦その他
 巡洋艦=「ヘレナ」「ホノルル」「ローリイ」は損害をうけた。しかし、のちに修理された。
 駆逐艦=「カッシン」「ダウネス」の二艦は修理できないほど損傷をうけた。他の二艦も損傷をうけたが、のちに修理
 敷設艦=「オグーフラ」は沈没したが、のちに引きあげられた。
 補助艦艇=水上機母艦「カーチス」、工作艦「ベスタル」は、ひどい損害をうけたが、のちに修理された。

◇飛行機
総計一八八機が破壊された(内訳、米海軍機九二機、米陸軍機九六機)。さらに陸軍機一二八機と海軍機三一機が損傷した。またカネオエおよびエワ基地の被害も甚大で、この二つの基地にあった八二機のうち、攻撃後、飛行できるのは一機にすぎなかった。

◇死傷者
海 軍=戦死二〇〇八人。負傷七一〇人。
海兵隊=戦死一〇九人。負傷六九人。
陸 軍=戦死二一八人。負傷三六四人。
民間人=死亡六八人。負傷三五人。
合 計=死亡二四〇三人、負傷一一七八人。(死亡の約半分は戦艦「アリゾナ」の爆発のとき生じた)

◇その他
攻撃中に、日本軍の爆弾と米国の対空砲火が、ホノルル市に損害をあたえたが、その額は五〇万ドルと評価される。

◇日本側の損害
飛行機二九機(戦闘機九機、急降下爆撃機一五機、雷撃機五機)。特殊潜航艇五隻。人員一八五人。(このうちには特殊潜航艇乗組員九人、飛行士五五人がふくまれている)

◇日本軍のパールハーバー攻撃策応計画

 1、使川兵力
  参加航空機および艦艇
  航空機(空母機、基地航空隊)    五三七機
  水上艦艇               一六九隻
  潜水艦(特殊潜航艇をふくむ)     六四隻

 2、所要日時
  「Z作戦」実施決定より第一弾投下まで 三五日
  機動部隊出航から第一弾投下まで    二〇日
  攻撃実施決定から第一弾投下まで   二四時間

 3、速度
  航空機          一五〇~二五〇ノット
  水上艦艇           一〇~三五ノット
  潜水艦             約一二フット

◇十二月八日(日本時間)朝の日本の攻撃目標

場 所

      内   容

パールハーバー
フィリピン
マレー 
タイ
グアム島
ウェーキ島
香港







空中から二波で攻撃
四目標に空襲(二目標に二波で)。六上陸(このうち五が実行された)
五目標に空襲、三上陸、タイから進出
陸軍は国境をこえて進撃、バンコックを占領
空襲と強行上陸
空襲と強行上陸
空襲と強行上陸

主要文献一覧表 top

The Chrysanthemum and the Sword Ruth Benedict (Houghton Mifflin,Boston)
ルーズ・ペネディクト“菊と刀”

Tojo: The Last Banzai Courtney Browne (Angus & Robertson, London)
コ-トニイ・ブラウン“東条・最後のバンザイ”

Tojo and the Coming of the War Robert J C Butow (Princeton University Press, Princeton)
ロバート・バトウ“東条と戦争の到来”

The Broken Seal Ladislas Farago (Random House, New York)
ラディスラス・ファラゴー“破られた封印”

The Road to Pearl Harbor Herbert Feis (Princeton University Press, Princeton)
ハーバート・フェイス真珠湾への道”

Midway Mitsuo Fuchida and Masatake Okumiya (US Naval Institute Annapolis, Maryland)
淵田美津雄・奥宮正武“ミッドウェー”

Ten Years in Japan Joseph C Grew (Simon and Schuster, New York)
ジョゼフ・グルー“滞日十年”

Turbulent Era Joseph C Grew (Houghton Mifflin, Boston)
ジョゼフ・グルー“激動の時代”   

Red Sun Rising: The Siege of Port Athur Reginald Hargreaves (Weidenfeld and Nicolson, London. J B Lippincott, Philadelphia)
レジナルド・ハーグリープズ“昇る旭日・旅順の包囲”

The Divine Wind Rikihei Inoguchi, Tadashi Nakajima and Roger Pineau (Hutchinson, London)
井之口力平・中島正 ロジャー・ピナウー“神風”

The End of the Imperial Navy Masanori Ito (Weidenfeld and Nicolson, London)
伊藤正徳“連合艦隊の最後”

The Rise and Fall of the Japanese Empire David H James (Allen and Unwin, London)
デービッド・ジェームズ日本帝国の興亡”

TThe War Against Japan Volume I S Woodburn Kirby (HMSO, London)
ウッドバ-ン・ガービー“日本との戦い”第1巻

Day of Infamy Walter Lord (Holt, Rinehart, and Winston, New York)
ウォルター・ロード“屈辱の日”

Hirohito: Emperor of Japan Leonard Mosley (Weidenfeld and Nicolson, London. Prentice-Hall, New York)
レオナード・モズレー“ヒロヒト・日本の天皇”

Admiral of the Pacific John Deane Potter (Heinemann, London)
ジョン・ディ-ン・ポッター“太平洋の提督”

The Double Patriots Richard Storry (Chatto and Windus, London. Houghton Mifflin, Boston)
リチャード・ストーリイパ “二人の愛国者”

A History of Modern Japan Richard Storry (Penguin Books, London)
リチャード・ストーリイ“近代日本の歴史”

Pearl Harbor : Warning and Decision Roberta Wohlstetter (Stanford University Press, Stanford)
ロバータ・ホルステッター“真珠湾・警告と決断”

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Home 空母の歴史 栄光の零戦 はやぶさ 日中航空決戦 陸上攻撃機 グラマン 疾風 紫電改 幻の戦闘機

 グラマン戦闘機 “強敵・零戦を駆逐せよ
(鈴木五郎著)

はじめに

  1 ビヤダル型戦闘機のデビュー
  2 F4F苦難の開発
  3 『零戦』と対決して敗退
  4 F6F「ヘルキャット」誕生
  5 日米、空の死闘
  6 太平洋の空を制す
  7 “零戦神話”の崩壊
  8 朝鮮戦争とグラマン
  9 その後のグラマン社

 あとがき
 グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機は、大空の王者「零戦」を、最初に地獄へと葬った戦闘機だった。
 同じグラマンF4F「ワイルドキャット」や、ブリュースター「バッファロー」を、1 対 1 でなら、ものともしなかった日本の「零戦」が、不意に現れたこの強敵によって、次から次へと撃ち落とされていく。
 太平洋を血の海に変えた米海軍奇跡の名機「ヘルキャット」とは、一体どのような戦闘機だったのか。


第二次世界大戦ブックス58

著者 鈴木五郎(すずき・ごろう)
1924年京都府生まれ。1943年学習院高等科在学中に、水上機の操縦訓練を受ける。
1944年三重海軍航空隊に入隊。1948年東京大学文学部卒業。翌年8月小学館児童編集部に入社。
1958年3月読売新聞社出版局入社、現在に至る。
日本航空機操縦士協会の機関誌「パイロット」に『世界航空事件史』を連載中。
  はじめに  米海軍の名機「ヘルキャット」 top

 第二次世界大戦を通じて登場した戦闘機は、交戦した各国のもの全部あわせれば、一〇〇機種をこすが、一応の成果をあげる活躍をしたのは、その半分といえよう。
 それをさらに“名機”という枠で絞っていくと、わずか一〇機種くらいになってしまう。
 アメリカのノースアメリカンP51「ムスタング」、リパブリックP47「ザンダーボルト」、ヴォートF4U「コルセア」、グラマンF6F「ヘルキャット」、イギリスのスーパーマリン「スピットファイア」、ホーカー「ハリケーン」、ドイツのメッサーシュミットMe109、フォッケウルフFw190、日本の零式艦戦(いわゆる「零戦」)、キ84「疾風」といったところが、それに属する。
 もちろん、各機にたいする評価は、各国により、また世界の航空評論家の見方によっていろいろちがっている。
 たとえば、性能的にはAクラスでも、その国への貢献度(戦闘実績)がBクラスならば、性能的にややおとっていても、貢献度Aクラスのものより評価がさがることもあるし、また、出現のタイミングが悪ければ、よいタイミングのものより損をする。
 さらに、局地迎撃用と長距離進攻用の違いとか、火力、稼動率、生産量などの点も、考慮にいれなければならない。
 このような観点から、総合的に採点してみると、P51「ムスタング」、スーパーマリン「スピットファイア」、メッサーシュミットMe109、零式艦戦などが、第二次大戦の戦闘機ナンバーを競うことになる。
 「ムスタング」は、時速七〇〇キロを上まわるスピード、ダッシュカ、上昇力および航続力で、日本の戦闘機よりおとる運動性をカバーして余りある戦闘力を保持していた。


グラマン社創業者の著者へのサイン入りの写真
With best wishes and warmest
regard to 
GORO. Suzuki.
Leroy. R. Grumman

 また「スピットファイア」は、潮のごときドイツの攻勢から“イギリスを救った戦闘機”としてジョンブル(イギリス人)の信頼を一身に集め、Me109は、高速一撃離脱の戦闘法と世界一の量産(三万五〇〇機)で、ナチの野望を一時的にではあるが可能にした。
 さらに「零戦」は、ずばぬけた運動性で、太平洋戦争初期から中期にかけ連合国空軍を徹底的に痛めつけている。
 いずれも第二次大戦当初から働き、改良されながら長期にわたって活躍したことが、他の機体よりポイントを稼いだきめ手となっている。
 その他、フォッケウルフFw190にしても、ヴォートF4U「コルセア」、グラマンF6F「ヘルキャット」、リパブリックP47「ザンダーボルト」にしても、それぞれ長所を大きく活かしての活躍が、名機に数えられる要素となっている。
 それらの中で、本来ならもっと高く評価されてもいいはずなのに、意外に地味な存在なのが、グラマンF6F「ヘルキャット(化猫)」である。
 「ヘルキャット」は、日本人にとって、終戦まぎわ「ムスタング」とともに本土を銃爆撃した憎い敵機だった。
 しかし、アメリカ人にとっては、おそるべきゼロ・ファイター「零戦」をばたばたと叩きのめし、太平洋の制空権を完全に奪ってくれた勝利の立役者なのだ。
 それなのに、アメリカで大もてにもてないのは何故だろう。
 その理由は、第一に、“ゼロ”の真の対抗馬として造られたグラマンF8F「ベアキャット」の方が、戦闘には参加しなかったものの、戦後もスピードレーサーとして活躍するほどの傑作機だったこと、第二に、「ヘルキャット」がせりおとしたライバルで、アメリカ人好みの高速機F4U「コルセア」のまもない復活の陰に隠れて、“出現のタイミングのよかった働き蜂”といった印象を一般にあたえたことだろう。
 しかし、性能の点での論議はともかく、太平洋で、反攻する米海軍機動部隊の主力機として、F8F「ベアキャット」にバトンを渡すことなく、日本機群を壊滅させた実績は偉大である。
 また、英海軍にも供与され「ヘルキャット2」の名で重宝がられていたことは、本機の使い良さを物語っている。
 「ヘルキャット」は、単に幸運のみでは果しえない、厳とした実力の賜物であり、十分に大関クラスの“名機”としての資格を備えている。
 もし“幸運の凡作機”だったなら、あれほど優位を保っていた「零戦」が、たやすく形勢を逆転されることもなかっただろう。
 昔から、日本人は身びいきする癖が強く、欧米人のお世辞や謙遜にすぐ悪のりする。
 たしかに「零戦」は、あらゆる要素を兼ね備えた万能戦闘機として、欧米人の度胆をぬき、「グレート・ジーク(偉大なる零戦)」とたてまつられた名機中の名機だった。
 しかし、重量の徹底的軽減に伴う構造の弱さやダッシュ力の不足、いつまでもパワーアップされないエンジンとスピード不足、防弾装置の欠陥というウイークポイントをもっており、これをカバーできるベテラン・パイロットのいるうちはよかったが、彼らを失いはじめるとともに、急速にその弱点をさらけだしてきた。
 「零戦」がよく戦ったということと、日本の勝利とがつながらないように、「零戦」につぐ新型機の登場があったところで、戦局にはさして影響がなかっただろう。
 そこには、国力が作用しなければどうにもならない問題があり、善戦した「零戦」は、まさに“悲劇の名機”とよばれるにふさわしい。
 その点、「ヘルキャット」は、偉大な国力をバックにして、性能をフルに発揮できた“幸運の名機”といえるかもしれない。
 それでは、この「ヘルキャット」は、どのような過程をへて“零戦キラー”になったのだろうか。
 それは単に、前作F4F「ワイルドキャット」を改良したというだけのものではなく、それより一〇年以上も前から、航空母艦用の戦闘機を主体としたグラマン社の、たゆみない研究と開発の成果がもたらしたものである。
 「零戦」を主体とした軽戦闘機に対抗するのに、艦載戦闘機としては大きすぎ、運動性もよくな誘うであるが、頑丈さと火力、防衛力で相手の小わざをはね返して圧倒するアメリカ的戦法は、結果的に成功をおさめ、その合理性を立証した。
 しかし、格闘性能にすぐれた「零戦」の優秀性を十二分に認識したアメリカは、アリューシャンで捕獲した、ほぼ完全な不時着「零戦」を徹底的に解明させ、アメリカ流ブラス日本芸としてF8F「ベアキャット」に具体化させた。
 それが太平洋戦線に投入される直前、戦争が終結して威力を発揮することはできなかったが、軍用機、特に戦闘機はこのような経過をたどって、常に相手より優位に立つよう、しのぎをけずるのだ。
 第二次大戦の終結で、F8F「ベアキャット」の生産が中止されると、グラマン社はすぐにジェット・エンジンつきのF9F「パンサー」を開発して、おりからの朝鮮戦線におくり、アメリカ軍の作戦を海上からたすけた。
 続いて超音速のジェット戦闘機ながら、運動性にすぐれたF11F「スーパータイガー」を造り出したが、これは昭和三十四年、日本の国防会議で航空自衛隊次期戦闘機の座をロッキードF104「スターファイター」とあらそい、「ロッキードか、グラマンか」で大きな話題となった。
 ごく最近も、F4「ファントム」(現航空自衛隊主力戦闘機)の後継機として、可変後退翼のマッハ二・五級双発艦載戦闘機F14A「トムキャット」を開発、ソ連のミグ25に対抗できるものとして生産に入り、すでに原子力空母「エンタープライズ」へ積みこまれている。
 グラマンの艦載戦闘機造りの手腕は、ますます冴えているといっていい。
 (ついでながら、アポロ宇宙船の月着陸船LMも、やはりグラマン社が製作した)
 こうしてみると、一九三〇年代から手がけられてきた艦戦のひとつのピークである、F6F「ヘルキャット」も、運ばかりではない実力の名機だったといえるだろう。

  あとがき top

 太平洋戦争でアメリカ海軍のグラマン「ヘルキャット」が、「零戦」のライバルとして闘ったことは余りにも有名である。
 しかし日本では、戦後三十年たった今日、なお「零戦」の勇戦譜のみが戦記ものや映画で派手に取上げられ、グラマン「ヘルキャット」の真の実績についてはほとんど知られていない。
 これは敗戦の結果、勝利を収めた部分や善戦したという過去をなつかしむとともに、手ひどくやられた古傷には、もうふれたくないという心理作用によるものと思われる。
 もちろんそれはそれでいいのだが、もう一歩踏込んで敗れた相手を大局的見地からよく見極め、正しく評価することによって謙虚に反省するとともに、将来への心の糧としなければ意味がないのではないか。
 徹底的に痛めつけられたグラマンF6F「ヘルキャッ卜」艦上戦闘機を、単に“憎いあん畜生”ではなく、“日本の恥部”をえぐりとってくれたメスと考えて書いた本編なのである。

 一連のグラマン艦戦を育ててきたルロイ・グラマン氏は、すでに引退して自宅に引き籠っておられるが、こうした著者の意図をよく汲み取ってグラマン社および日本おける総代理店・住友商事航機部を通じ、各種の資料データおよび写真を提供してくださった。
 ここに深く感の意を表したいと思う。
 なお右上の写真は、著者がロングアイランドのベスペイジ工場を訪れた際(一九七四年九月三日)、組立てライン上のF-14超音速艦上戦闘機に乗せていただいた時のものである。

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弁護士紹介 | Lawyer

所長 弁護士

中田 憲悟

Kengo Nakata

経 歴
昭和58年3月明治大学法学部卒
平成4年4月広島弁護士会登録
これまでの主な活動
平成16年広島弁護士会副会長
平成17年~19年広島弁護士会 子どもの権利委員会委員長
平成21年~平成28年(財)交通事故紛争処理センター嘱託弁護士
平成22年~平成28年広島大学大学院法務研究科法科大学院教授(実務家専任)
平成22年~広島弁護士会仲裁センター「医療ADR」仲裁人
平成29年~境界問題相談センターひろしま相談・調停委員
住宅紛争審査会住宅紛争処理委員
広島市児童相談所嘱託弁護士
座右の銘
遂げずばやまじ 大槻玄沢(高田宏「言葉の海へ」)
趣 味
海釣り、家庭菜園、読書

— はばたき事務所がお客様に選ばれる理由は何だと思いますか?

手を抜かず、一歩踏み込んで最後までやり抜く姿勢を大切にしています。
はばたき法律事務所の強みは、ベテランと若手とで取り組むことで幅広く機動的に、そして柔軟に対応するとともに、所長の経験を生かして確実な解決に向かっていけるところではないかと思っています。また、弁護士として常に心掛けていることは、手を抜かず、一歩踏み込んで最後までやり抜く姿勢を持つことです。そして、早期に譲歩すべきときや諦めた方がよいときには、それも選択肢の一つであることを伝え、冷静な判断に結びつけることです。それにより依頼者の将来にとってベストな解決になればと思っています。

— 中田さんがこれまでの経験で印象に残っている裁判は何ですか?

大手の証券会社を相手方として勝訴した「ワラント被害救済事件」です。
弁護士をはじめて初期の裁判になりますが、大手の証券会社の営業マンに、極めてハイリスクで理解しにくい「ワラント」を購入させられ、何千万円もの被害を受けた方々について、一部ですが被害回復に結びつけることができました。大手証券会社の営業マンが、そのようないい加減な勧誘をするはずがないと思っている裁判官の考えを覆すのは難しいと感じる難事件でした。
少年事件における加害者は「被害者」でもあるのです。
刑事の分野では、殺人や強盗殺人といった重大事件だけでなく、多くの少年事件に関わってきました。事件の大半は、生い立ちの中で「虐待」を受けた少年があまりにも多いと思います。彼らは加害者として取り上げられますが、もともとは非常に辛い思いをしてきた被害者です。社会がそうした少年たちの育ちをサポートできていないのに、犯したことについては被害者の心情に配慮して、厳罰にするという裁判所の姿勢に長年疑問を持ちながら関わっています。近年、非行を犯した少年の背景にある「虐待の防止」などが重要だという動きが出てきていることを喜ばしく思っています。

弁護士

田中 一人

Kazuto Tanaka

経 歴
平成19年3月明治大学法学部卒
平成22年3月國學院大學法科大学院修了
平成23年12月広島弁護士会登録
これまでの主な活動
  • 広島弁護士会事務統括(令和元年7月~)
  • 広島家族法研究会 幹事
  • 子どもの権利委員会 委員
  • 消費者問題対策委員会 委員
  • 刑事弁護センター委員会 委員
  • 死刑問題検討プロジェクトチーム 幹事
  • 中国地方弁護士会連合会死刑廃止等を検討する委員会 副委員長
  • 糸リフト弁護団
座右の銘
必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ (織田信長)
趣 味
サッカー、ソフトバレーボール、読書

— 田中さんが弁護士として常に心掛けていることは何ですか?

依頼者との信頼関係の構築を常に心掛けています。
弁護士が依頼者の利益を実現するためには、依頼者が経験した事実を正確に聴き取ることが重要です。そのため、依頼者の方が話をしやすい環境を作ることなど信頼関係の構築を常に心掛けています。

— どのような時にやりがいを感じますか?

依頼者にとって利益となる紛争解決に至った時にやりがいを感じます。
依頼者にとって利益となる紛争解決に至ったとき、弁護士は依頼者とその喜びを共有することができます。弁護士として大きなやりがいを感じる場面の一つです。

弁護士

毛利 圭佑

Keisuke Mouri

経 歴
平成24年3月京都大学法学部卒
平成26年3月京都大学法科大学院修了
平成28年12月広島弁護士会登録
これまでの主な活動
  • 日弁連リーガル・アクセス・センター(LAC) 委員
  • 広島弁護士会 子どもの権利委員会 委員
  • 同委員会福祉部会 幹事
  • 広島弁護士会 法曹一貫教育・就職問題に関するプロジェクトチーム 幹事
  • 広島弁護士会 消費者問題対策委員会 委員
  • 広島弁護士会 法律相談センター運営委員会 委員
  • 広島弁護士会 民事・家事委員会 委員
  • 広島家族法研究会、医療問題研究会 所属
  • 情報商材被害対策広島弁護団
座右の銘
努力に勝る天才なし
趣 味
スキー、水泳

— 弁護士を目指したきっかけは何ですか?

「弁護士は心の医者だ」という言葉を聴いたのがきっかけです。
大学時代に弁護士の方の講演会でこの言葉を聴きました。それまでは、法律や弁護士というと無味乾燥なイメージがありましたが、法的アドバイスを通じて、精神的に疲弊した依頼者の方々を救える可能性があると知り、イメージが変わりました。以来、弁護士を志すようになりましたが、依頼者の皆さまに寄り添う弁護士を目指そうという初心は今も変わらず持ち続けています。

— 毛利さんが弁護士として常に心掛けていることは何ですか?

依頼者の皆さまに納得した上で選択していただけるよう心掛けております。
何が依頼者の皆さまにとってベストな選択肢かを一緒に考えることを大切にしています。訴訟や調停をすることが必ずしも良いとは限りません。様々な選択肢を提示し、さらにそのメリットとデメリットを説明して、依頼者の皆さまに充分に納得して選択していただけるよう心掛けております。























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