太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。
BS-TBS『日本遺産』シーズン3も残すところあと2回、明日もあさ9時から放送です。
前半は鳥取県から、「日本最大の大山牛馬市」。
大山の山麓ではなんと千年以上の畜産の歴史があり、今は上質な黒牛の山地として注目の的。そんな名峰大山に育まれた牛馬市の知られざる歴史にスポットをあてます。
後半は、「南国宮崎の古墳景観」。
宮崎県に、大小3500基以上の古墳が密集しているのをご存じでしたでしょうか?宮崎市、西都市、新富町がその舞台。土地の人々は古墳を壊すことなく、生活の一部として慣れ親しんできました。なぜ宮崎に古墳がたくさんあるのか?その背景に迫ります。
そしてこの放送が終わると、残すは1月20日の最終回のみです。お見逃し無く!


歴戦の『撃墜王』呆気ない最期
4月12日の「菊水二号作戦」では、愛媛県の松山基地から鹿児島県の鹿屋基地に進出していた、菅野直大尉(当時23歳。戦死)が率いる第三四三海軍航空隊の戦闘機「紫電改」42機(うち2機は故障で発進取り止め、8機は引き返す)も、特攻隊の前路掃討のため出撃。喜界島上空で敵戦闘機F6F、F4Uの大編隊と空戦を繰り広げている。この空戦に参加した笠井智一上飛曹(当時19歳)の話。


「私は、小隊長・杉田庄一上飛曹から常々、『いいか、空戦になったら絶対に俺から離れるな。墜とすのは俺が墜とす。俺が撃ったら、お前たちも敵機は見えてなくていいから同じように撃て。そしたら協同撃墜になるんだから』と言われていました。
杉田上飛曹は、ラバウルで激戦をくぐり抜けてきた日本有数の『撃墜王』で、空戦で負った火傷のケロイドが顔に生々しく残っていました。戦後知ったことですが、山本五十六聯合艦隊司令長官が戦死したときの6機の護衛戦闘機の一人でもありました」
だがこの日、乱戦のなかで笠井は杉田機を見失い、無我夢中で敵機と渡り合って2機に機銃弾を命中させ、やっとの思いで生還する。
「着陸してただちに指揮所に向かい、直立不動で挙手の礼をして、『笠井上飛曹帰りました。2機撃墜』と報告。するとそのとたん、先に帰っていた杉田上飛曹から、『こら、笠井。お前は撃墜を確認したか? 馬鹿者、撃墜というのは確実に海面に墜ちるのを見届けた上でのことだ。お前がやったのは、なるほど煙は吹いたが墜ちてはおらん。あれは不確実だ!』と一喝され、大目玉を食ってしまいました。
しかし、あれほどの歴戦の勇士となると、空戦中の部下の動きもちゃんと見てくれているんですね。編隊を離れた罪滅ぼしのビンタをもらいましたが、単機になって自分も危うく撃墜されるところでしたから、じつにありがたいビンタでしたよ」
沖縄へ出撃する日本軍航空兵力を叩こうと、九州の各航空基地に対する米軍機の空襲も激しさを増してくる。そして4月15日――。
「午後2時50分、即時待機(即座に発進できる態勢で待機すること)が発令され、杉田上飛曹、私(笠井)、宮澤豊美二飛曹、田村恒春二飛曹の紫電改4機が用意されました。飛行機に乗って待機していると、まず、敵機北上中との情報が入った。ただちにエンジン始動、試運転もそこそこに、一番機、三番機がチョーク(車輪止め)を外して猛然と砂埃を上げ、杉田上飛曹は後ろを振り返り上空を指さしながら離陸を始めました。しかし、そのときにはすでに、グラマンF6Fが7~8機、飛行場の真上にきていて銃撃を始めたんです。
私も続いて離陸しようと、チョーク外せの合図をしましたが、もう整備員が退避してしまってどうにもならない。そのうち、グラマンの放ったロケット弾が翼下で爆発し、主翼に大穴が開いて燃料がこぼれ出しました。
いまはこれまで、と飛行機から転がり出て退避しながらふと前方を見たら、杉田機がブワッと火と煙を吐いて、墜ちる寸前でした。何か叫んだと思いますが、言葉にならなかったですね。
四番機の田村は、私が出ないもんだから離陸できず、三番機の宮澤は杉田機の墜ちた上を飛び越えて左旋回で高度をとろうとしているときに、高度150メートルぐらいでグラマンに捕捉され、撃墜されてしまいました。敵機が上空に現れたとき、発進中止の命令が出たといいますが、私はそれを聞いていないし、気づきませんでした」
杉田上飛曹、満20歳と9ヵ月。歴戦の戦闘機乗りの呆気ない最期だった。

4月6日の「菊水一号作戦」に出撃し、7日に戦艦「大和」の上空哨戒に飛んだ植松眞衛大尉も、杉田上飛曹が戦死したのと同じ15日、笠之原基地上空で敵戦闘機15機編隊に対してたった2機で空戦を挑み、1機に命中弾を浴びせたものの自らも被弾、頭部と左脚に重傷を負い、からくも落下傘降下している。
「脱出直後に意識を失い、気がつけば海面でした。ただちに落下傘を外して1000メートル先の海岸めざして泳ごうとしましたが、脚が動かないんです。落下傘は風をはらんで沖に流されていき、敵戦闘機・F4Uがそれを狙って機銃を撃っているのが見えました。
漁船に助けられ、基地の地下防空壕の医務室で診てもらったところ、負傷箇所は後頭部と左脚の銃創と、脱出時に翼に接触したことによる大腿部骨折でした。敵愾心に燃えて、やっつけてやるとの一心でしたが、いま思えば、圧倒的多数の敵戦闘機に2機で突っ込んだのは無謀だったですね……」
(続く)太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島、次いで4月1日には沖縄本島に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。
あれから75年――。地上戦ばかりがクローズアップされがちな沖縄戦だが、航空部隊も、押し寄せる敵の大軍に一矢を報いようと必死の戦いを繰り広げ、特攻隊だけでも3000人を超える、多くの若い命が失われた。戦力が圧倒的に劣る絶望的な戦況のなか、沖縄の空を飛んだ男たちは何を見たのか。3回にわたってお届けする。
「特攻機が全機命中しても、敵にはかすり傷」
「雲の多い日でした。一面の雲海の上を高度5000メートルで飛び、沖縄上空に到達すると、中城湾に、海面を埋め尽くすほど多数の敵艦艇がひしめいているのが見えた。それまでに見たことも想像したこともないほどの数です。
私は12機を率いて30分間、上空警戒にあたりましたが、その間にも特攻機が敵艦に突入したと思われる黒煙が、幾筋も立ち上るのが望見されました。しかし、どう見ても味方の飛行機よりも敵艦艇のほうがはるかに多い。たとえ特攻機が全機命中しても、敵にかすり傷程度しか与えられまい。戦いはもう、来るところまで来たな、そんなことをふと考えました」
と、昭和20(1945)年4月6日、沖縄に来襲した敵艦船を攻撃するため、九州に展開した日本陸海軍航空兵力の総力を挙げて行われた「菊水一号作戦」で零戦隊の一隊を率い、鹿児島県の笠之原基地から出撃した植松眞衛大尉(当時23歳。第三五二海軍航空隊分隊長)は語る。

沖縄への上陸に先立つ3月18日、アメリカ海軍機動部隊は、のべ940機の艦上機をもって九州各地の日本軍航空基地を空襲。翌19日には呉、阪神地区の艦船と工場、九州北部の航空基地をのべ約1000機で攻撃した。
これは、サイパン、テニアンや硫黄島への上陸の際にも見られた、大規模な上陸作戦を前にまず周辺の日本軍基地の抵抗力を奪うという、米軍の常套手段である。
昭和20年3月23日、南西諸島が敵機動部隊の空襲を受け、26日には米軍の一部が慶良間諸島に上陸。
そして4月1日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始した。米軍はその日のうちに沖縄の二ヵ所の飛行場を占領し、早くも4月3日には小型機の離着陸を始める。

この米軍の動きに一矢を報いようと発動された航空作戦は「菊水作戦」と呼ばれ、4月6日、その第1回として海軍機391機、陸軍機133機の合計524機が出撃した。うち特攻機は、海軍215機、陸軍82機の計297機。海軍特攻機の未帰還は162機だった。米軍記録によると、この攻撃で駆逐艦3隻と上陸用舟艇1隻が沈没、戦艦1隻、軽空母1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦15隻など計34隻が損傷したという。
この沖縄への第一次航空総攻撃を「菊水一号作戦」と呼ぶ。沖縄上空で植松大尉が見たのは、この日の戦いの一断面であった
同じ日、戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻からなる艦隊が、「海上特攻隊」として、沖縄に向かうべく徳山沖を出撃している。植松大尉は4月7日、第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将の命を受け、零戦12機を率い、今度は鹿児島県西南方を航行中の「大和」の上空哨戒にあたった。植松の回想――。
「『主トシテ敵哨戒機ヲ撃攘スベシ』との命令でした。この日も雲が低く垂れこめていて、『大和』の発見には苦労しました。艦隊の位置は佐多岬の270度(西)、距離70浬(約130キロ)との情報を得ていたので、硫黄島、黒島を経て、目標となる草垣諸島を探したんですが視界不良で見当たらず、ようやく雲の合間に艦隊を見つけたのが午前9時。
そこで、先に哨戒にあたっていた二〇三空の零戦と交代し、雲の下、高度300メートル以下の低空を旋回しながら護衛しました。『大和』の甲板から手を振る乗組員の姿が見えましたよ。私の隊が飛んでいる間には、敵機は姿を見せませんでしたが……。
笠之原基地に還ってしばらくしたところで、『大和』が敵機の襲撃を受けていることを知りました。燃料の都合もありますし、圧倒的多数の敵機の前には、上空にいても結果は変わらなかったと思いますが、暗澹たる気持ちになりましたね」
植松大尉の零戦隊が引き揚げたあと、敵艦上機の波状攻撃を受けた「大和」は、4月7日午後2時23分、大爆発を起こし沈没。「海上特攻隊」は、「大和」「矢矧」と駆逐艦4隻を失い、3700名を超える戦死者を出して、沖縄突入を果たせず壊滅した。

日本側は沖縄の米軍に反復攻撃をかけるべく、日本各地に展開していた実戦部隊を順次、九州の各航空基地に集結させ、消耗した部隊には飛行機の補充を図った。
鹿児島県の国分基地に進出した第六〇一海軍航空隊の岩井勉少尉(当時25歳、のち中尉)は、昭和15(1940)年、零戦のデビュー戦に参加した歴戦の搭乗員である。岩井は、4月3日の特攻隊前路掃討を皮切りに、沖縄への出撃を重ねたが、その間、どうしても忘れられないひとコマがあるという。

「九九式艦上爆撃機の特攻隊に、ベテランの飛行兵曹長がいました。私より若いが妻帯者で、戦歴も技倆も相当のものです。その彼が、4月6日、菊水一号作戦で特攻出撃前の整列のとき、司令長官・宇垣纏中将に、『質問があります』と手を挙げた。『本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか』と。長官は即座に、『まかりならぬ!』と、一喝しました。
『かかれ』の号令のあと、彼は私のところへ駆け寄ってきて、『いま聞いていただいた通りです。あと2時間半の命です。ではお先に』と言い置いて、機上の人となりました……」
横須賀海軍航空隊(横空)戦闘機分隊長・岩下邦雄大尉(当時24歳)は、笠之原基地の第二〇三海軍航空隊(二〇三空)へ増援する零戦の空輸を命じられ、4月6日、12機を率いて横須賀から笠之原に飛んだ。

「笠之原基地に着いたときにはすでに暗くなっていて、着陸灯を頼りに着陸すると、基地は、何やらものものしい雰囲気でした。菊水一号作戦で出撃した飛行機が、相次いで帰還する時間だったんです。
そこで、二〇三空司令・山中龍太郎大佐に空輸完了の報告をしたところ、『ちょうどよいところに来てくれた。実は今日、飛行隊長の神崎國雄大尉が奄美大島上空で戦死したので、当分の間、君に戦闘機隊の指揮をとってもらいたい。空輸搭乗員も全員一緒に戦ってもらう。横空司令にはこちらから了解をとるから』と言われました。
空輸がすんだら横須賀に帰るはずでしたが、戦争ですから否応はありません。全く思いがけず、私たちも菊水作戦に参加することになりました」
と岩下は振り返る。
沖縄上空で展開された大空中戦
4月12日、「菊水二号作戦」と称して、ふたたび沖縄の米軍に対する航空総攻撃が行われた。岩下は、敵戦闘機を引きつけて攻撃隊の前路を切り開くため、各部隊から寄せ集められた零戦96機の総指揮官となり、うち33機を直接率いて出撃する。
「酸素マスクをつけて高度5000メートルで進撃しましたが、沖縄上空に到達したときには敵機の姿はなかった。海上には無数の敵艦艇。前年、フィリピンのミンドロ島に押し寄せる敵上陸部隊を見たときもそうでしたが、バケツ一杯の羽毛を海面にまき散らしたかのような、思わず目を瞠る光景でした。
敵戦闘機をおびき出すという目的にしたがって旋回を続けるうち、はるか下方の飛行場から赤い土煙がもうもうと上がり、敵戦闘機が続々と離陸しているのが見えた。10数分後、厚木の第三〇二海軍航空隊から派遣されていたベテランの赤松貞明少尉機が、サッと私の機に近づき、バンク(機体を左右に傾ける動作)をしながら斜上方をさかんに指さす合図をしてきました。その方向に目を凝らすと、豆粒より小さく見える敵機の大群がこちらへ向かってくる。私は増槽(落下式燃料タンク)の投下把柄を引き、翼をひるがえして増槽が落ちてゆくのを確認すると、大きくバンクを振って戦闘開始を下令しました」
たちまち、沖縄上空で大空中戦が展開された。紅蓮の炎をあげて墜落する戦闘機、落下傘降下する搭乗員、碧い海面には墜落した飛行機の波紋があちこちに広がって見える。
「そのうちに、敵戦闘機・ボートシコルスキー(チャンスボート)F4Uコルセア4機が、私の機に攻撃をかけてきました。私の零戦は胴体に白線2本の指揮官標識が描かれていたので、恰好の目標になったんでしょう。
後上方から次々に攻撃をかけてくる敵機が機銃を発射する寸前に、急旋回して敵機の腹の下にもぐり込むことで射弾をかわす動作を繰り返しながら、スピードを落とさないよう高度を下げていき、ついに数百メートルにまで下がった。
こうなると、急角度で突っ込んでくる敵機は海面に激突する危険が出てきます。入れかわり立ちかわり、執拗に攻撃してもさっぱり効果がないので、とうとうあきらめたのか、敵機は私を追うのをやめ、引き揚げていきました。機銃弾を撃ち尽くしたのかもしれません」
ようやく余裕を取り戻した岩下が上空を見上げると、すでに沖縄の空に敵味方の機影はなかった。岩下は単機で帰途についた。
「島の上空は敵戦闘機が待ち伏せしている危険があると判断して、針路をやや東寄りにとって飛んでいると、はるか左前方を零戦が2機、奄美大島に向かって飛ぶのが見えました。無線はうまく通じない。危ないぞ、と思って心配していると、奄美大島上空で待ち構えていたグラマンF6F ヘルキャット3機がこの零戦の後方から襲いかかり、2機とも瞬時に火を噴いて撃墜されてしまいました……」
笠之原基地に着陸、機体を点検してみると、不思議なことに1発の被弾もない。岩下は、零戦のすぐれた旋回性能に礼を言いたいような気がしたと言う。


その後、岩下は4月16日の「菊水三号作戦」をはじめ、九州各地に来襲する敵艦上機や、大型爆撃機ボーイングB-29の邀撃に出撃。4月29日には三号爆弾(空中爆弾)でB-29を1機撃墜、その巨体がゆっくりと螺旋状に降下しながら霧島山に激突するのを見届けている。
5月に入って、岩下以下、横須賀海軍航空隊からの助っ人たちは本隊からの命令でようやく横須賀に復帰したが、その間に数名の戦死者を出していた。
「なぜ空輸隊が、所轄外の航空隊で当初の任務以外の作戦に従事することになったのか、その間の指揮命令がどんなふうに変更されていったのか、いまもって腑に落ちないままです。ここで戦死した部下たちのことを思えばなおさらですよ」1943(昭和18)年2月に日本軍がガダルカナル島を放棄して以降、太平洋に散らばった日本が占領する島々では、圧倒的な攻撃力を誇る連合軍の前に、守備隊が死を覚悟した絶望的な突撃をし、ほぼ全滅する「玉砕」(ぎょくさい)が繰り返されました。
本項では、太平洋の島々の代表的な戦いを概観し、日本軍が追い詰められていく状況を追います。
玉砕
玉砕(ぎょくさい)とは、辞書によれば「玉のように美しくくだけ散ること。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと」※とあります。アリューシャン列島・アッツ島の日本軍守備隊が敵に突撃してほぼ全滅した時、大本営が発表の中で用いられたのが最初とされます。
玉砕は「北斉書」という、636年に書かれた中国の書物から取られた言葉で、「全滅」を美化して呼ぶために用いられました。
日本軍は軍人の心構えを述べたとされる「戦陣訓」にあるように、捕虜(俘虜)となることは最大の恥辱(ちじょく)とされ、捕虜になるくらいならば死ぬべき、と教育されていました。
そのため、戦局が絶望的になると、降伏するのではなく全滅を覚悟で突撃する玉砕が繰り返されるようになりました。「天皇陛下万歳」を叫びながら最後の突撃をする場合が多く、連合軍からは "banzai attack" と呼ばれました。
生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ
「戦陣訓」より
※出典…デジタル大辞泉
本項では、太平洋の島々の玉砕や脱出の様子を概観します。以下の地図にあるように、太平洋上に散らばる大変広い範囲で日本とアメリカ軍を中心とする連合軍の間で死闘が繰り広げられました。
玉砕のあった太平洋の島々(一部)[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtDA9PwsAiTiuLyzFI/18SSyEyLopJg/xwzFwtXJjMTAyYTCwMALwkRuQ==]青=アッツ島(アリューシャン列島)
紫=ギルバート諸島
ピンク=マーシャル諸島
緑=サイパン島
アリューシャン列島(アッツ島・キスカ島)
1942(昭和17)年6月、ミッドウェー作戦とほぼ同じタイミングで、連合艦隊は北方の「アリューシャン列島」に対する攻撃を行い、アメリカ領であったアッツ島、キスカ島を制圧。ここに守備兵を置いていました。これは北方の守りを固めると同時に、アメリカ本土を占領したという宣伝のためでもありました。
アリューシャン作戦 要所図[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFvDdEtjQ8MKT1Nz06QI8/JCs/Ds+MrQsCLfSktXJjMTAyYTCwMAGyoRLw==]青=アッツ島
紫=キスカ島
緑=アダック島
オレンジ=ダッチハーバー
初の「玉砕」となったアッツ島
アッツ島における日本軍守備隊は約2500名でした。それに対し、1943年5月12日、アメリカ軍は1万1000人の部隊で上陸。空母1隻、戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦19隻を援護に伴っていました。
大本営はアメリカ軍上陸後、増援部隊を送ると守備隊に連絡をしたものの、船を動かす燃料が不足していたことから部隊を送るのは不可能と判断し、5月23日玉砕を命令しました。
5月29日、わずか300名まで減った日本軍守備隊は、最後の突撃を行い、意識を失い捕虜となった29人(27人との説も)以外全員戦死しました。
奇跡的な救出作戦が展開されたキスカ島
一方でキスカ島には、日本陸海軍合わせて5000人以上が守備に当たっていました。
アッツ島へアメリカ軍が上陸したことを受け、キスカ島にも押し寄せてくるのは時間の問題となりました。
玉砕したアッツ島の二の舞となるのを避けるため、兵員を撤収させることとなりました。
当初潜水艦で救出を試みようとしたものの、アメリカ軍の警戒が厳重になり、潜水艦2隻が行方不明、1隻が座礁するなどしたため、速度の速い駆逐艦を中心とした艦隊で救出をすることになりました。
1回目は天候が思わしくなく中止に、続く2回目はアメリカ軍の哨戒機を発見したことで中止。
7月29日、3回目の救出によりついにキスカ島守備隊全員を撤収することができました。
アメリカ軍はついにこの撤収作戦に気付かず、8月14日に激しい艦砲射撃の後上陸し、濃霧の中日本軍がいるという思い込みの下、同士討ちが多発し、死者95人、負傷者78人が出たと言われています。
「絶対国防圏」の設定
日本軍が各地で連合軍に撃破されている状況に対し、日本軍の作戦の中枢である「大本営」は、1943年9月、「絶対確保すべき要域」(通称「絶対国防圏」)を設定しました。
それは、千島、小笠原、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマ(現ミャンマー)を結ぶラインで、日本が必要な資源を確保し、かつ敵から本土を防衛するのに最小限必要な地域を示したものでした。
日本の「絶対国防圏」[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFvDbC8Lx9R4w5yisvA8o3L/kpzw0PTMyJD8sFwLJjMTAyYTCwMANokSNQ==]緑=千島
ピンク=小笠原
紫=サイパン
青=スンダ海峡
茶=ビルマ
※この地図は参考とするために作成したものであり、正確さを保証するものではありません。
ギルバート諸島(タラワ・マキン)
アメリカ軍はサイパンを中心とする「マリアナ諸島」を制圧し、日本本土を爆撃する計画を考えていました。マリアナ諸島攻略をするにあたり、背後から攻撃を受けないようにギルバート諸島の日本部隊を駆逐する必要がありました。
ギルバート諸島[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtD3wjnAP+kojQviyQfwwyPyPjwrPjI8oj4gpRIJjMTAyYTCwMALU0R7A==]青=タラワ環礁
オレンジ=マキン環礁(ブタリタリ島)
そこで、1943(昭和18)年9月下旬より、ギルバート諸島のタラワ環礁(かんしょう=円形に形成されるサンゴ礁の島)、マキン環礁の日本軍を攻撃するべく、機動部隊による空襲をしつつ、島の偵察を行いました。
そして11月21日、数日前からの激しい艦砲射撃に引き続いて1万8000人もの兵力で上陸作戦を開始。
約4500人の守備隊は、以前から島に堅固な陣地を築いており、上陸してくるアメリカ軍に対し猛烈な攻撃を浴びせました。アメリカ側にも多大な犠牲が出たものの、約150名の捕虜を残し、ほぼ全員が玉砕しました。
Exact Date Shot Unknown
NARA FILE #: 080-G-57405
WAR & CONFLICT BOOK #: 1342
続いてマキンにもアメリカ軍が上陸。約700人の守備隊に対し、アメリカ軍は約6500人の規模で上陸を試み、4日間の激戦の末、日本軍は捕虜105名(そのうちのほとんどが戦闘に参加しない「軍属」)を残し、全滅しました。
マーシャル諸島
ギルバート諸島占領後、アメリカ軍はマーシャル諸島へと向かいました。マーシャル諸島の「クェゼリン環礁」は世界最大規模で、最適な艦隊停泊地であると同時に、マリアナ諸島への中継点としても好都合であることから、アメリカ軍としてはぜひとも確保したい場所でした。
日本軍はクェゼリン島に約5100人、環礁北方のルオット、ナムル両島に約3000人を駐屯させていました。
1944(昭和19)年1月30日よりアメリカ軍は空爆と艦砲射撃を徹底して行い、日本軍の航空機、飛行機、防御陣地、通信施設などが破壊されました。爆薬、食糧も大部分が失われました。
そして2月1日クェゼリン島に、2日ルオット、ナムル島に上陸を行い、日本軍は激しく抵抗したものの、2月4日までに玉砕・全滅しました。
それ以外にもマーシャル諸島の多くの島々で日本・アメリカの間で熾烈な戦闘が行われ、いずれの島でも日本軍はほぼ全滅。主要な島における戦いでの戦死率は9割以上となりました。
マーシャル諸島の主な島における戦闘の日本軍被害
島名 | 兵力 | 損害 | 戦死率 |
クェゼリン | 約5100人 | 戦死約4800人 捕虜300人 | 94% |
ルオット・ナムル | 約3000人 | 戦死約2540人 | 85% |
エンチャビ | 1276人 | 戦死1260人 捕虜16人 | 99% |
エニウェトク | 808人 | 戦死785人 捕虜23人 | 97% |
メリレン | 1476人 | 戦死1451人 捕虜25人 | 98% |
合計 | 約11,660人 | 戦死約10,840人 捕虜744人 | 93% |
表出典:「オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争」
連合艦隊司令部の崩壊
連合艦隊司令部の移動
ソロモン諸島の攻略にあたり、アメリカ軍は日本軍の最大の拠点であり、9万人の兵力を擁するラバウルを上陸・制圧せず、空爆および周囲の島を制圧することでラバウルを無力化する方針を決めました。
山本五十六長官が撃墜され、古賀峯一長官へと交代した後、海軍航空隊の拠点は、爆撃にさらされ制海権も脅かされるようになったラバウルから、北に位置する日本海軍の一大拠点であるトラック諸島へと移動しました。
そしてトラック諸島へもアメリカ軍機動部隊の空襲が迫り、連合艦隊司令部はパラオ諸島へと移動をします。
連合艦隊司令部の移動と遭難地点[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtDM5fKqnyDogITs8Qks8TIZC+/Is+cktTcCu9yJjMTAyYTCwMAM/ASOw==]青=ラバウル
ピンク=トラック
紫=パラオ
緑=フィリピン・ダバオ(司令部移動目標地点)
オレンジ=セブ島沖(参謀長機不時着地点)
古賀峯一司令長官の遭難と機密漏洩事件(海軍乙事件)
パラオへと移った連合艦隊司令部ですが、パラオにもアメリカ軍の空襲があるという情報が入り、1944(昭和19)年3月31日、水上機二機に分乗し、急遽フィリピンの「ダバオ」を目指して移動を行いました。
しかし、悪天候に阻まれ、古賀長官の乗った機は行方不明になり、長官機の搭乗者は誰も生存者はありませんでした。
もう一機には福留参謀長らが乗っていましたが、こちらはフィリピンのセブ島沖に不時着しました。
フィリピンは日本軍の勢力下ではありましたが、いたるところにアメリカ軍の指示を受けて動くゲリラがおり、福留参謀長らはゲリラに捕まってしまいました。
フィリピンの日本陸軍までが部隊を出し、武力を背景に交渉したところ、参謀長らはゲリラから解放されました。
しかし、参謀長らは連合艦隊の作戦内容や兵力等が記された機密文書を所持しており、逃亡の際に投棄したものの、ゲリラに回収され、連合軍の手にわたってしまいました。
これによって連合艦隊の作戦と戦力の全貌が敵に筒抜けとなってしまいました。この一連の事件は「海軍乙事件」と呼ばれました(山本長官機撃墜事件は「海軍甲事件」)。
まとめ
連合軍の本格的な反攻作戦の前に、太平洋に浮かぶ小さな島々に十分な戦力を回すことのできなくなった日本軍は、キスカ島を除いては守備隊の救出も満足にする余裕がなく、各地で玉砕という名の全滅を繰り返しました。
当然戦力はそのたびに大きく減っていきました。また、1943年春以降、輸送船の不足などにより、燃料が各地で不足し、満足に作戦遂行ができない状況が浮き彫りになっていました。
玉砕のあった太平洋の島々は、マリアナ諸島(サイパン・グアムなど)とフィリピンへつながる通り道であり、それら日本軍にとって戦略上きわめて重要な地点を失うことに直結していきます。
そして海軍乙事件により、山本長官に引き続き古賀長官までも失った連合艦隊は、大きな打撃をこうむりました。
加えて、機密文書が連合軍に漏れたことで、それまでも暗号は解読されていたものの、より具体的で詳細な作戦情報と戦力が敵に知られることとなりました。
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