太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。
アクアライフ6月号と近況
- 2015/05/24
- 17:11
取材先のインドのADAの総代理店 Still Water Aquaticsに掲載号が届いたので、
取りに行ってきました。
おーぅ、あの○○さんが載ってる・・・。
一時帰国の際にお会いしていますが、全容を知ったのは初めて・・。
なになに、水草水槽に合うアピストたち・・?
ナイスニーが載ってないやんか~?
水草水槽といえばナイスニーでしょ~? (←私の独断です)
インドの小特集~。
やっぱり、プロのカメラマンはキレイに撮りますな~。
来月号はフィールド(お魚採集)の記事になるとのこと。
どんな記事になっているのか楽しみです。
こんな魚達も出てくるかな~?
今日はグダグダと取り留めなく・・続きます。
5月のインドといえば・・・
なんと言っても、クリケットのインディアン・プレミア・リーグ(IPL)
約1か月半に渡ってリーグ戦が繰り広げられます。
赴任2年目からは毎年、最低1試合は見に行っております。
すごい熱気というか、みんなとにかく騒ぎたいというか・・・
この日の試合は結局、途中で雨が降り出して、あえなく中止。
中止になるまでの2時間、大音量で流される音楽にあわせ、ひたすら盛り上がる観客席。
クリケットの試合を見に行ったといえば、お客さんとも盛り上がれます~。
お客さんと言えば、
この前は日帰り出張で
4時前に家を出て、帰りは「砂嵐」で飛行機が遅れて、自宅に着いたら深夜の1時半。
さすがに疲れました。
0時半に空港に着いたら、荷物の受取場もタクシーも大混雑。
日本ではありえない・・・。
あと、5月と言えば・・フルーツの季節です。
マンゴーとライチ。
5月・6月が旬なので、マンゴーはほぼ毎日食べております。
ライチも冷凍してないものは瑞々しくて一段とおいしいです。
では、これは何か分かりますか?
グダグダでしたが、よろしければポチッとお願いします。
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TVで見かけた 7UPのマサラ(スパイス・ミックス)味のCM。
アニュシュカーという女優さんです。
私、ひそかにファンです~。
こちらも穴を掘ってます。 アピスト・ナイスニー(F1)
- 2015/05/18
- 12:02
はっきり書いてませんでしたが、穴を掘っているのはオスで、メスはこの穴を利用するのか?
自分でも穴を掘るのかは、今後観察していきたいと思います。
記事の最後に穴を掘っていたのは、
ちらりと写っていた尾びれでおわかりかと思いますが、
アピストグラマ・ナイスニーのペアでした。
こちらはメスが穴を掘っております。
穴のある石のまわりで いちゃいちゃしておりました。
たこの後、多分産卵したと思うのですが、二日後にはなくなってしまいました。
なぜか、この水草水槽ではナイスニー浮上したことがありません。
F2を残したいので、こちらの繁殖も頑張りたいと思います。
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ナイスニーはあまり物陰に隠れたりしないので、水草水槽にはぴったりだと思います。
お久しぶりに ディプロタエニア
- 2015/05/16
- 20:11
1月末に産卵して以来、なかなか産む気配もなかったのですが、
最近になって、ようやく、♂が流木下に新たに穴を掘り始めまして、何やら恋の季節の予感です。
デイプロって穴を掘るんですよね。
3月・4月はインドの暑い盛りで水温が高かったのが産まない原因だったのかな?
5月中旬に入って、曇り~雨の日が増えてきて、気温も下がってきましたので、
ここはアピストの繁殖、頑張らないと。
ディプロの青は菫色だな~。
背びれの先に少し赤色っぽい色がでてきたかな。
メスも追い掛け回されていたのが、少し反撃するようになってきましたが
もう少し時間がかかるようです。
頑張って、子どりするぞ~。
オヤニラミ採集の後は・・「浜名湖辺り」へ
- 2015/04/27
- 12:43
ガサガサで体もだいぶ冷えてきたこともあり、昼食後ガサは終了といたしまして、
Katu4126さんの淡水魚の飼育部屋を見学させていただきました。
(実は2回目だったりします。)
シマドジョウくんがお出迎え~。
これが噂のニラミ柱
このニラミ柱の中の一匹は
尾びれのところまで赤のラインが続いている、とても美しい個体でした。
これを元に品種改良できたらスゴイな~。
先日採ってこられたという カワバタモロコ
金色のラインが渋い・・・。
琵琶湖行きで採集されたという アジメドジョウ
な、長い・・・。
そして昨年採集して冬越ししたというタガメ
コ、怖い・・
昨年、再三の探索のうえようやく採集されたゲンゴロウ
今年は、コイツの繁殖に取り組まれるのかな?
全て、ご自分で採集されているところがスゴイです。
今回のお礼に私のほうからは、
インド産のボウズハゼと小型のガラ、そしてインドのカレー・ルーを進呈いたしました。
ボウズハゼはアラビア海に注ぐ河川にて採集したものなのですが、
日本のボウズハゼとの差がさっぱりわかりません。
最後に湖のみえるオシャレなラウンジに連れていっていただきました。
katu4126さん重ね重ねありがとうございました。
「浜名湖辺り」、私も住みたい~。
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今回の採集にはGPS付のカメラを持って行ったのですが、
Katu4126さんから、
「その写真をブログに載せると、位置情報が読まれてしまうのではないですか?」とのご指摘。
なんでも以前そういったことがあったそうなのです。
というわけで、大切なポイントを「守るために、
GPSをオフにして撮影するようにいたしましょう。
私の写真は・・・しっかり位置情報が記録されていたので、
他の位置情報のない写真のうえにコピーして記録を消しています。
(他にも良いやり方があるのでしょうけど思いつきませんでした。)
夢にまで見た(本当) オヤニラミ
- 2015/04/26
- 12:00
清流に住み、親は卵・稚魚を守ります。
大学1年生の時に初めて知って、それ以来、採集・飼育に明け暮れました。
もう30年以上の前のことです。
当時の採集ポイント (岡山県・・今はダム湖のなか)
水がすごく透明で、底にいるオヤニラミを近くで見ようとして、
顔が水につくまで水面に気づかないくらいでした。
オヤニラミが泳いでいるの分かりますか?
水中に倒れた枝に卵を産み付けています。何匹ものメスが一匹のオスの縄張りぬ産むようです。
海外赴任してからのこの何年間、この魚を採る夢を年に一度くらいの割で見るようになりました。
川に行って水中を覗き込むと、オヤニラミの姿が見える。
それをすくい取ったところで目が覚めて、夢であったことに気づきます。
何度も同じ夢を見ているうちに、夢の中で「今度こそこれは夢じゃな~い。」と確認するのですが、
目が覚めると当然ですが、夢・・・。
短い一時帰国の間では、ポイントを探すこともなかなか叶わず、
鬱々としていたのですが、
ぶろぐ村 淡水魚カテの不動の一位、「浜名湖辺り」のKatu4126さんにお願いして
オヤニラミの採集に連れていっていただけることになりました。
当日は雨だったのですが、なんとかガサガサはできる事を信じて、朝5時に自宅を出発!
浜名湖畔で待ち合わせ場所で合流後、約1時間のドライブでポイントに到着。
期待に胸を膨らませ、
入水するも、いきなり私のタモ網が破損・・・ katu4126さんの網を使わせていただきました。
恥ずかし~。 (安物はいかんです・・)
そんなこんなでガサをするも、なかなか採れず・・。
次のポイントに移動しようかとしたその時、
大きなメスのオヤニラミが私の網のなかに!!!
30数年ぶりの再会です。
まさしく 夢に見た オ・ヤ・ニ・ラ・ミ !!
その後は、ポイントを移動しつつ、
中サイズ・小サイズの個体を採集することができ、
大満足・・・。
最後のポイントではKatu4126さんの網にビッグサイズの雄が入りました。
さすがです!
途中でアカザやホトケドジョウの採れるポイントや、
分布東限のドンコの採れるポイントなどもご案内いただきました。
雨もやまないので、昼食のあとはkatu4126さんのご自宅の水槽を拝見。
こちらのほうは次の記事にてご紹介させていただきます。
Katu4126さん、本当にありがとうございました。
夢が叶いました!
咲き始めています。
初めて見た時は、大きなピンクの花びらに驚きと感動したことを覚えています。
泥沼から這い出てくる花に、何故か癒されます。
https://lovegreen.net/flower/p156120/
デリー暴動事実調査レポートは、インドではイスラム教徒の生活は問題ではないことを示しています
主流のメディアのおかげで、現在パンデミックに取り組んでいるほとんどの一般市民はデリーの暴動の真実を決して知らないかもしれないとザキア・ソマンは書いています。

インドのイスラム教徒は「ヒンドゥーラシュトラ」で2階級の市民に削減されました。市民権改正法(CAA)の成立、迫り来る国家人口登録(NPR)および国民登録(NRC)(現在パンデミックのため保留)は、インドのムスリムを無国籍にするためのステップです。デリーマイノリティ委員会(DMC)による2020年2月の首都首都圏の暴動に関する事実調査報告は、イスラム教徒がいかに暴力の矢面に立たされたかを示しています。それは、罪のない市民の生命と財産を保護する上での国家機構の故意の失敗を強調しています。政治家や警察の偏見の共犯を記録しています。それは、CAAに平和的に抗議していたイスラム教徒にレッスンを教えるために暴力がどのように組織されたかを概説します。
インドは独立以来、多くの共同暴動を目撃してきました。「世俗的な」政党を含むすべての政党は、政治的便宜のために共同暴力を扇動する罪を犯している。無実の女性と子供たちが彼らの監視下で暴徒を暴動することによって虐殺されたので、様々な政府は別の見方をしました。
私たちは警察と行政が暴力を防ぐために何もしないのを見てきました。犯人が政治施設によって保護され、被害者が警察によって嫌がらせを受けている例がいくつかあります。ほとんどの生存者にとって、それは法的正義またはリハビリテーションへの終わりのない待つことです。私たちは、政治指導者や大臣が暴動の被害者にリップサービスを支払うのを見慣れています。しかし、今回もそれはひどく欠けていました。
ナレンドラモディ首相は、政府のモットーである「サブカサース、サブカヴィシュワ」を 何度か呼びかけています。しかし、彼の政府はデリー暴動の生存者に基本的な救済と補償を提供するために何もしていません。政府の側には完全な沈黙がある。
DMCの暴動に関する報告書で、DMCの事実調査委員会は、暴力は「一見、差別的な法律に抗議しようとする特定のコミュニティに教訓を教えるように計画され指示された」と述べた。 それはまた、「それ以来、その暴力の計画者、扇動者、指導者、加害者を保護し、犠牲者を犯人に変える試みがなされている」とも述べた。 委員会はまた、現職または退職した高等裁判所裁判官が率いる調査対象者を推薦しました。
世界最大の民主主義の首都である暴動が白昼に起こったことは恥ずべきことです。暴動という言葉はここでは誤称かもしれません。特定のコミュニティに対する標的を定めた暴力は、スマートフォンを使用してメディアと市民の完全な視野の中で起こりました。 警察の前でJai Shri Ramを唱えている暴徒に人々が攻撃された様子についての目撃証言は数多くあります 。少なくとも、22のモスクが破壊された。イスラム教徒の近所の学校でさえ全焼しました。多くの女性生存者は、暴徒による性的暴行の仕方を語っています。女性はCAAの抗議行動を主導した女性であるため、特に標的にされたようです。暴徒は、「…アザディ (自由)をあげます」と叫んで卑猥な仕草をしました。 デリー警察が暴力を扇動したと主張してCAA抗議に参加した女性学生と活動家を逮捕したことは衝撃的です。警察は、証拠なしに多くのコミュニティボランティアに対してFIRを提出しました。彼らは「goli maaro …」というスローガンを掲げているのを見た人に対して何の行動も起こしていません。
メディアの特定のセクションを除いて、事実調査レポートは感情を刺激していません。それは政権を行動に動かしていません。Aam Aadmi党(AAP)率いるデリー政府、議会、およびその他の政党は沈黙を保つことを選択しました。与党にとっては、CAAに反対した者にとっては当然の罰だった。
ヒンドゥーラシュトラの支持者は、インドのイスラム教徒を説明するための宗教的少数派という用語の使用を好まない。しかし、DMCレポートには、イスラム教徒だったという理由だけで標的にされたいくつかの生存者の証言が掲載されています。
主流のメディアのおかげで、現在パンデミックに取り組んでいるほとんどの一般市民は、デリーの暴動の真実を決して知ることができません。人命と財産の喪失に苦しんだ何百もの家族は、更生と正義の望みなしに生き続けます。
DMCレポートは、イスラム教徒の生活が問題ではない、憲法制定民主主義の暗い現実を思い起こさせるものです。
(Zakia SomanはBharatiya Muslim Mahila Andolanの共同創設者です。表明された見解は個人的なものです。)
スケールダウンしたメッカ巡礼が7月29日から始まる:サウジアラビア高官
メッカ巡礼2020年7月29日に始まると当局は月曜日に言った。新しいコロナウイルスのパンデミックの中で、今年のメッカ巡礼は厳格な衛生プロトコルの下で行われ、65歳未満の巡礼者に限定され、慢性疾患はありません

当局によると、今年のメッカ巡礼は、サウジアラビアがコロナウイルスの急増と戦い、イスラム教徒の巡礼者が約1,000人と大幅に削減されたため、7月29日に始まるとのことです。
世界中の約250万人が、聖地メッカを中心に数日かけて行われる儀式に参加します。
今年のメッカ巡礼は厳格な衛生プロトコルの下で行われ、65歳未満の巡礼者のみがアクセスでき、慢性疾患はありません。
「ハッジの儀式のピークであるアラファト山の巡礼者の立場は木曜日に下がる」と公式のサウジアラビア報道機関は水曜日が毎年恒例の行事の初日であることを示すと言って最高裁判所を引用した。
メッカ巡礼のタイミングは、イスラム暦の暦に従って、月の位置によって決まります。
先月、サウジアラビアは、「非常に限られた」ハッジを開催すると発表しました。これは、コロナウイルス感染の急増と戦う政治的および経済的危険に満ちた決定です。
これまでに2,523人の死者を含む約253,349件の事件が発生しており、これはアラブ湾岸諸国の中で最高の犠牲者である。
巡礼当局は巡礼はすでに王国に存在する1,000人に制限されると述べましたが、その70%は外国人と残りのサウジアラビア人ですが、一部の報道によると10,000人が参加する可能性があります。
儀式は、ウイルスから回復した医療専門家と警備員に限定されると、メッカ巡礼省は述べた。
ヘビーブロー
サウジアラビア国外から到着する巡礼者を除外する決定は、王国の近代史上初めてであり、世界的なイスラム教徒の間で失望を巻き起こしましたが、パンデミックのためにそれが必要であると多くの人が認めました。
巡礼者はメッカに到着する前にコロナウイルスについて検査され、儀式の後に自宅で検疫する必要があると保健当局は述べています。
サウジアラビアでは、5月下旬に運動制限を緩和して以来、感染の確認とCovid-19による死亡の両方が増加しています。それはまだ国際航空リンクを復元する必要があります。
メッカ巡礼は、生涯で少なくとも一度は健常なイスラム教徒に欠かせないものです。何百万人もの巡礼者が混雑した宗教的な場所に集まるため、伝染病の主要な原因となる可能性があります。
サウジアラビアを本拠とするイスラム世界リーグとイスラム協力機構は、巡礼者の健康と安全に対する政府の動きを後押ししています。
しかし、この決定は依然として、宗教が健康問題よりも優先される強硬派イスラム教徒を怒らせる危険を冒している。
規模が縮小したハッジは、ウイルスによる減速と石油価格の急落という2つのショックから既に解放されており、王国にとって大きな収益の損失を表しています。
小さな一年中ウムラ巡礼はすでに3月に中断されていました。
政府の統計によると、合計で毎年120億ドルがサウジ経済に追加されています。
メッカ巡礼を主催することは、イスラムの聖地の管理が彼らの政治的正当性の最も強力な情報源であるサウジアラビアの統治者にとって名誉の問題です。
しかし、2300人もの崇拝者を殺害した2015年のスタンピードを含む、長年にわたる一連の致命的な災害は、巡礼の王国の管理に対する批判を引き起こしています。
カニエ・ウェストの大統領選挙:本当か、それともショー?
日曜日のカニエウェスト氏の米国大統領候補としての演説は、ソーシャルメディアで口コミが広まったため、両極性障害との闘いについて語ったミュージシャンに戸惑いや懸念を引き起こしました。

米国のラッパーであるカニエウェストが11月の大統領選挙でドナルドトランプを追放する可能性の低いキャンペーンを無秩序に開始したことで、怒り、彼のメンタルヘルスへの懸念、および彼が本気で走っているかどうかについての疑問が生じました。
「セキュリティ」とマークされた防弾ジャケットを着て、カニエウェストは日曜日にサウスカロライナ州チャールストンでのとりとめのない演説中に涙を流し、ホワイトハウスの入札を開始したとされていました。
代わりに、有名なアメリカの廃止論者ハリエットタブマンについての物議を醸すコメントが出席者を激怒させ、軽蔑をオンラインで挑発し、マーキュリーミュージシャンの真の意図について彼らの頭を掻き立てた政治アナリストを残しました。
セントルイスのワシントン大学で西部のコースを教えているジェフリー・マッキューンにとって、イベントのトプシーの波状の性質は、ヒップホップスターの典型でした。
「カニエが衝動的なものすべて。私は「おしぼり」の政治的エントリのファンではありませんでした。しかし、これは完全にカニエのブランドです」と彼はAFPに語った。
カニエウェストは、「2020」を頭にかぶり、妻のキムカーダシアンに妊娠中絶をしてもらいたかったと主張するなど、1時間の怒鳴り声でいくつかの被験者の間で向きを変えました。
しかし、「ハリエット・タブマンは奴隷を実際に解放したことはなく、奴隷たちを他の白人のために働かせただけだ」という彼のコメントで、ほとんどの見出しをつかんだ。
ウェストは「心を失った」と歴史家のケイト・クリフォード・ラーソンは「約束の地への境界:ハリエット・タブマン、アメリカの英雄の肖像」の著者であるとツイートした。
「ハリエット・タブマンは奴隷を解放した。あなた、ウェスト氏はジャークでタブマンの名前を口に出すに値しない。あなたは誰も解放していない」とラーソンは書いた。
タブマンは、活動家と地下鉄道として知られる安全な家のネットワークを利用して、奴隷から自由な数十人の黒人を助けることで知られています。彼女は南北戦争でも北軍のために戦った。
カニエ・ウェストはまた、最年長の娘であるノースを妊娠していたときに妻に妊娠中絶を受けさせたいと語った。それから彼は、彼の父親も彼を中絶したいと望んでいたことを明らかにしました。
「私の父は私を中絶したかった。私の母は私の命を救った。私の父が忙しすぎたのでカニエウェストはなかっただろう」とウェストは涙を流しながら言った。
彼は後に叫んだ、「私はほとんど娘を殺した!私は娘をほとんど殺した!」
「プロボカトゥール」
ソーシャルメディアで口コミが広まったカニエウェストの演説は、当惑させられただけでなく、双極性障害との闘いについて語ったミュージシャンへの懸念も引き起こしました。
このイベントはまた、彼がどのような政策を提案するかについてほとんど洞察を提供しなかったが、彼は「赤ん坊を持っている人は誰でも百万ドルを得る」と提案した。
カニエ・ウェストも過去に刑務所改革について話しました。
43歳の彼はツイッターでトランプに挑戦することを発表した7月4日に眉をひそめた。
彼は彼のキャンペーンについての詳細をほとんど提供していませんが、ヒップホップのスター-トランプとの2018年のオーバルオフィスミーティングに「Make America Great Again」のキャップを着用したことで有名です-彼はもはや大統領を支持しないと述べました。
先週、ウェストがレースから脱落したとの報道が米国のメディアに広まった。
彼はいくつかの州で大統領投票に上場する期限を逃したが、オクラホマ州の投票所に上場している。
ウェストは、サウスカロライナの投票用紙に表示されるには、月曜日の正午までに10,000件の署名を収集する必要がありました。
州選挙管理委員会の報道官は「Kanye Westは請願を提出しなかった」とAFPに語った。
アナリストは西部を完全に消滅させることに消極的です。2016年のトランプの実行は、共和党の指名を獲得するまで特に深刻とは見なされなかったことを認識しています。
彼らは、ウェストがそれに影響を与えるために競争に勝つ必要がないと言います。
ロバート氏は、「カニーの個人的なリソースと、メディアの注目を集める彼自身の可視性と実績は、たとえいくつかの主要な州でのみ投票に参加したとしても、レースに影響を与えるのに十分な場所でワイルドカードになる可能性がある」と述べた。ミシガン大学の選挙専門家、ユン。
マッキューン氏は、ウェスト氏は「素晴らしいアイデアがたくさんある」と信じているが、「もしあれば、この分野ではマイナーな選手になるだろう」と語った。
彼は今週ニューアルバムをリリースする予定のウエストを、別のショーとして彼の走りを見ているかもしれない「パフォーマンスアーティスト」と表現している。
「結局のところ、カニエはいろいろな意味で挑発者であることで、彼はより利益を上げてきました。」
次の検索結果を表示しています: 田中佑子 91歳 被爆
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石塔類には、層塔・宝塔・多宝塔・宝篋印塔・五輪塔・石幢・卒塔婆などがあり、仏教の諸仏に対する供養として寺院に捧げられたものですが、桃山時代になって茶人がこれに目をつけ茶庭に用いるようになり、極端なものとしては大徳寺孤篷庵の寄せ燈籠のように、石塔類の各部分を利用することまで行われた。どの石塔類であっても墓石であったり、経文を納めるものであり一般住宅庭園の添景物としては石燈籠ほどは使われていません。
層 塔
奈良時代にはすでにあったと言われ、三重・五重・七重・十一重・十三重と奇数個に笠と軸部を層状に重ねたもので、構成は基礎・塔身・相輪に分かれ、塔身はさらに笠と軸部に分けられます。また、相輪も下から伏鉢、請華、宝珠からなり、笠最上部の露盤に立てられます。軸部の最下部は大きく作られ四面に仏像が刻まれますが、このような四方仏ではなく、梵字が彫られることもあります。いずれも東西南北を示す物ですから塔を据えるときには方向に注意しなければなりません。 |
商品写真
品番 | s001126000 | s001133000 | s003189000 |
写真 | |||
寸法 | H=3.0 /笠 W=1m角 | H=4.0 / 笠W=75cm角 | H=5.0 / 笠W= |
備考 | 三層石塔(宝殿黄龍石) | 九層石塔(白川石) | 七層石塔(北木島石) |
品番 | s001238000 | s001240000 | s013245000 |
写真 | |||
寸法 | H=3.0 /笠 W=1m角 | H=2.2 /笠 W=0.53m角 | H=3.4 /笠 W=0.73m角 |
備考 | 三層石塔(宝殿赤龍石) | 五層古石塔(白川石) | 五層石塔(北木島石) |
品番 | s010247000 | s014354000 | s007388000 |
写真 | |||
寸法 | H=2.4 | H=4.0 | H=4.5 |
備考 | 五層六角石塔(筑波石) | 七層石塔(北木島石) | 百済型五層石塔(抱川石) |
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フィリピン人が建立した特攻隊記念碑
次に私たちは、マバラカット西飛行場跡にある特攻隊記念碑に向かった。この記念碑は、もとはアンヘレス市在住の画家、ダニエル・H・ディソン氏が、1974年、マバラカット東飛行場跡に建てたもので、最初の碑がピナツボ山噴火の際に流失したのち、こんどはマバラカット西飛行場跡に建てられた。――これには少し説明が要る。
大戦中、マバラカットに暮らしていた14歳のディソン少年は、よく飛行場に遊びに行き、そこで日本海軍の搭乗員に可愛がられた。終戦後、成人してマニラの大学を卒業したディソン氏は、猪口力平・中島正共著『神風特別攻撃隊』の英訳版を読み、衝撃を受けたという。自分を可愛がってくれたあの若者たちは、身を捨てて体当り攻撃を決行した特攻隊員だったのだ。
そこで、ディソン氏は、マバラカットから飛び立った特攻隊員たちを慰霊し、顕彰したいと考えた。戦争の被害者が、敵の将兵を祀るとはなにごとかと、反対意見も多く出るなか、ディソン氏は反対者を粘り強く説得し、同志を募って「カミカゼ・メモリアル・ソサエティ」(KAMESO)という団体を設立した。そしてついに、最初に特攻隊が突入に成功したさい出撃したマバラカット東飛行場跡の一角に、記念碑を完成させたのである。
1974年といえば、戦後29年。特攻隊員はもちろんのこと、特攻作戦の中枢にいた航空隊司令や参謀クラスの元軍人、そして戦没者の親世代も存命だった頃である。日本側の関係者は、本来、自分たちがやるべきことを地元フィリピンの人たちがやってくれたことに感謝し、1975年以降、毎年、慰霊団が訪れるようになった。
初期の頃には、二〇一空司令・山本栄大佐や、大西瀧治郎中将夫人・大西淑惠さん、航空参謀として最初の特攻隊編成に関わった吉岡忠一中佐らも、元特攻隊員たちとともに参加している。
それにしても、フィリピン人が日本の特攻隊を大事にしてくれるというのはどういうことかーー慰霊団に参加した門司親徳氏は、ディソン氏に聞いてみた。
「祖国に殉じて戦った霊に、敵も味方もありません。それに、私たちフィリピン人は白人支配の犠牲者です。同じアジアでも、経済的に立派に自立を遂げている台湾や韓国とちがって、アメリカ人は、フィリピン人に自分でものをつくることを学ばせなかった。アメリカがつくったものを、一方的にフィリピン人に売りつけてきたからでした。だからフィリピンでは鉛筆1本つくれない。アメリカは、植民地フィリピンに対して愚民政策を推し進めてきたんじゃないでしょうか」
というのが、ディソン氏の答えだった。大いに感じ入った門司氏は、自らが受け取っている軍人恩給のすべてを投じ、ディソン氏らの活動を支援するようになる。
ところが、1991年、ピナツボ山噴火のさいの土石流で記念碑が失われ、再建の話が出るようになると、こんどはマバラカット市観光局が、この地に特攻隊の記念碑を建てるという計画が浮上してきた。マバラカット市当局は、ディソン氏が元の場所(東飛行場跡)に記念碑を再建することを認めず、ディソン氏を外す形で、新たな記念碑をつくることになったという。日本人が来る観光スポットのシンボルに、との思惑があったのかもしれない。
ディソン氏はやむなく、マバラカット西飛行場跡の西端に土地を確保し、ここに記念碑を建立することとした。門司氏は、マバラカット市の動きは否定しないが、心情的にディソン氏を応援していたことは言うまでもない。
かくて、あたかも「元祖」と「本家」が互いに存在を主張しあうような形で、平成16(2004)年、カミカゼが「最初に飛び立った飛行場」(ディソン氏の西飛行場)と「最初に突入したときに発進した飛行場」(市当局の東飛行場)、二つの記念碑が同時に建立されたのだ。
だが、ディソン氏は2015年12月10日、85歳でこの世を去り、日本側の関係者もほぼ全てが鬼籍に入ってしまったいま、記念碑建立のいきさつを知る人はほとんどいない。
――話を戻すと、私たちがまず西飛行場の記念碑を目指したのは、和彦さんの父・門司親徳氏が応援していたディソン氏にゆかりの場所であるからにほかならない。ところが、現在、西飛行場の記念碑は射撃場の敷地内になっていて立ち入り禁止、事前に許可証を入手しない限り、そこに行くことはできないのだという。許可証と言われても、どこに申請すればいいのかもわからない。
そこで、ゲートの番をしていた守衛に、訳を話して交渉すると、一人500ペソ(約1000円)を払えば、10分間だけ入場を許可するということで話がついた。もちろん、これは正規の入場料ではないはずだが、入れてくれるのならやむを得ない。
車でゲートを入るとほどなく、右側の草むらの奥に記念碑が見えた、周囲は草ぼうぼうだが、記念碑の敷地だけはきれいに整備されている。碑の左右にはフィリピン国旗と日本の軍艦旗が描かれ、その間に<第二次世界大戦に於て日本神風特別攻撃隊が最初に旅立つた飛行場>と記されている。
台座の上には観音像が置かれ、供物台には、以前日本人が来たときに供えていったものか、干からびた果物や溶けた蝋燭が残っていた。

碑には、ディソン氏の文章を誰かが翻訳した、やや拙い日本語の解説が刻まれていた。その言葉は、次のように締めくくられている。
<第二次世界大戦中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。この地に訪ねる参拝者の皆様に謹んでお願いします。全ての「神風」と連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の為にいのりますと祈念して下さい。
歴史研究家 ダニエル・エッチ・ディソン>
おそらく、無許可で人を立ち入らせたことがバレてはまずいのだろう、守衛は終始そわそわと落ち着かない。私たちは、観音像に線香をあげ、供物を供えると、急き立てられるように記念碑をあとにした。
さらに私たちは、マバラカット東飛行場跡、かつてディソン氏が建てた記念碑の跡地にマバラカット市がつくった記念碑を訪ねた。交通量の多い幹線道路に面したところに、日本の鳥居を横長にしたような形のゲートがあり、飛行服姿の特攻隊員の像が立っている。この像は、実在の特攻隊員ではなく、特攻隊をテーマにした舞台で主役を演じた俳優・今井雅之氏をモデルにしているという。

ゲートの左脇には、ダークグリーンの地に<神風 Kamikaze(DIVINE WIND) EAST AIRFIELD>と大きく書かれた「MABALACAT CITY TOURISM OFFICE」の看板が立っている。土曜日の昼で、学校帰りらしい制服姿の女子学生が大勢前を通るが、彼女たちはこの碑に全く関心はないようだった。
12の飛行場から続々と特攻隊が
――戦後75年の今年(2020)3月、筆者は、特攻隊編成の一部始終を知る立場にあり、生前インタビューを重ねた門司親徳副官の長男・和彦さんほか3名とともに、フィリピンのかつての特攻基地跡を訪ねた。
門司親徳氏は、会社や家庭で戦争の話をすることはほとんどなく、和彦さんは小さい頃、風呂で問わず語りに戦争のことを聞かされたかすかな記憶があるのみだという。フィリピンで父の足跡をたどるのは、和彦さんの宿願だった。
新型コロナウィルス(COVID-19)はすでに猛威をふるっていたが、出発前に確認したところ、羽田-マニラ便は平常運航で、入国制限も敷かれていない。3月13日午前1時30分羽田空港発のJAL077便に乗り、現地時間5時(日本時間6時)、マニラ空港に到着。そこで車をチャーターし、あえてガイドはつけず、Googleマップを頼りに、かつての特攻基地を訪ねることにした。まずはマニラ市街を抜けて北上し、クラークフィールドを目指す。
クラークフィールドは、マニラの北側、ルソン島中部に広がる大平原で、戦時中、ここには、北からバンバン北、バンバン南、マバラカット東、マバラカット西、クラーク北、クラーク中、クラーク南、マルコット、アンヘレス北、アンヘレス東、アンヘレス西、アンヘレス南と、12もの飛行場があった。
当時、飛行機搭乗員が携行した航空図に各飛行場の詳細はなく、一帯を赤い円で囲って「クラーク航空要塞」とのみ記されている。アンヘレスのように、上空から見て飛行場とわからないよう、草原のままにしている秘匿基地もあった。そのため、自分が進出すべき飛行場の位置がわからず、よその部隊の基地に間違えて着陸する飛行機が後を絶たなかったという。
昭和19(1944)年10月20日、特攻隊が最初に編成された二〇一空本部はマバラカット市街にあり、10月21日、最初に出撃したのはマバラカット西飛行場、初めて突入に成功した10月25日に発進したのはマバラカット東飛行場である。さらに、ほかの飛行場からも、特攻隊は続々と出撃した。

マニラのニノイ・アキノ国際空港からクラークまでは約100キロ、早朝から大渋滞のマニラ市街を抜け、きれいに整備された高速道路に乗れば、約2時間の道のりである。高速道路は、かつて大西中将と門司副官が走った幹線道路のやや東寄りを通っている。左右には広大な田園風景が広がり、よく晴れた空の下、牛や山羊が草を食んでいるのがあちこちに見える。
サンフェルナンド近くに差しかかった頃、右前方の平原の向こうに、まさに擂鉢を伏せたような形の山が見えた。アラヤット山である。「決死隊を作りに行くのだ」と大西中将がつぶやいたのは、このあたりだったに違いない。

予約していたアンヘレス市内のホテルに荷物を預け、最初に訪れたのは、アンヘレスとマバラカットの中間あたりに位置するクラーク博物館である。
ここには、太古の昔から現代までの、クラーク地方の歴史資料が時代を追って展示されているが、なかでもアメリカ統治時代、この地に置かれた航空基地に関連する展示が目を引いた。

太平洋戦争初期、在比米軍は日本軍の猛攻を受け壊滅、クラークは日本陸海軍航空部隊の一大拠点となる。しかし、やがて巻き返したアメリカ軍は戦争に勝利、ふたたび広大な米空軍基地が置かれる。1991年4月、空軍基地からわずか20キロのピナツボ山が大噴火、同年11月、米軍は、基地使用期限を更新せず撤退するが、2012年からふたたび駐留している。
――いろいろとめずらしい資料、写真の展示があって興味深く見学したが、太平洋戦争については、明らかに米軍側の視点に立っていて、ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館ほどではないものの、日本人としてはあまり居心地のよいものではなかった。
日本軍と戦った恩讐を越え
ガイドもつけない、行き当たりばったりの旅。マバラカット西と東、両方の記念碑に詣でた私たちは、続いて、スマートフォンで見つけた「バンバン歴史博物館」に向かった。
バンバンの地には、特攻作戦の渦中、第一、第二航空艦隊司令部が置かれていたが、ここがどんな博物館なのか、予備知識は何もない。着いてみると、入口には「CLOSED」の札が出ている。どうしても見学したかったわけではないが、一応、念のためノックしてみると、ドアが開いて男性が訝しげに顔を出した。そこで和彦さんが、
「突然訪ねて申し訳ない。じつは私の父が戦争中、この地にいたので寄ってみました」
と言うと、男性が、
「お父さんの名前は?」
と聞き返す。
「父の名前は門司親徳です」
和彦さんが答えたとたん、男性は大きく目を見張り、心底驚いた表情を見せた。

この博物館の館長を務めているロニー・デラクルス(Rhonie Cauguiran Dela Cruz)さん(50歳)。1999年に設立されたバンバン歴史協会(Bamban Histrical Society)の会長を務めている。2000年には1年間、勤めていた日系企業の技術研修のため日本に滞在したことがあり、休日には大磯の門司親徳氏邸を何度も訪ねて話を聞いたという。門司氏は、
「バンバンで実際に起きたことを記録することはフィリピン史研究にとって重要。日本の戦没者への供養にもなる」
と熱心に語る、このフィリピン人青年に目をかけ、デラクルスさんも門司氏を「パパ・モジ」と呼んで慕っていたそうだ。
デラクルスさんは目を丸くしたまま、
「パパ・モジの息子さんが来てくれたなんて信じられない! 彼は偉大な人でした。この博物館ができたのもパパ・モジのおかげなんです」
と、興奮気味に言った。


和彦氏は知る由もなかったが、「パパ・モジ」こと門司親徳氏は生前、ここバンバン歴史博物館にも援助を続けていたのに違いなかった。
思わぬ縁に驚きながら、デラクルスさんの案内で館内を見て回る。入口を入って最初の細長い展示室の壁面には、この地で戦い、命を落とした日本、アメリカ、そしてフィリピンの人々の肖像写真がズラリと並び、展示ケースにはそれらを補完する形で、飛行機の模型や実物の銃弾、ヘルメット、日本軍が使用した信楽焼の地雷などがおさめられている。そのなかに、若き日のデラクルスさんが門司親徳氏と一緒におさまった写真もあった。
壁面に飾られた写真のなかには、特攻隊の最初の指揮官・関行男大尉や、関大尉の敷島隊を直掩した西澤廣義飛曹長ら日本人の姿もあれば、デラクルスさんの祖父や伯父の遺影もある。
「私のおじいさんと伯父さんは、抗日ゲリラとして日本軍と戦いました。でも私は、祖国のために戦った人は等しく尊敬します。この博物館で私は、日本人とアメリカ人、フィリピン人を平等に扱いたい。それが歴史を学ぶことです。そしてそのことが、互いの友好にもつながると信じています」
恩讐を超えて、ニュートラルな視点に立とうとするデラクルスさんの言葉は重い。先ほど立ち寄ったクラーク博物館と比べて……などと言うのは野暮であろう。日本で戦争の歴史を扱う博物館にも、これほど公平な姿勢で運営されている施設はなかなか見当たらないのではないか。私設の小規模な博物館であるからこそ、館長の考えが展示の隅々に行きわたるのかもしれない。
最初の展示室から中庭に出ると、フィリピン人抗日ゲリラたちの集合写真が大きく伸ばされて飾られ、銃や撃墜された飛行機の部品など、さまざまなものが置かれている。

デラクルスさんの説明は驚くほど正確で、日本側の動きや人名、その人がどんな人かなども、本を何冊か暗記したのではないかと思うほど詳しかった。
第二展示室の入口には、日本とフィリピン、アメリカの国旗が掲げられている。展示室の横はオフィスになっていて、つけっぱなしのテレビには、NHKの大相撲中継が流れている。無観客で開催された大阪場所である。
「相撲は好きでいつも見ています。観客がいないのは不思議な感じですね」
と、デラクルスさん。


第二展示室には、日本の零戦搭乗員や特攻隊員の写真が、解説つきで並び、飛行機の模型などが展示されている。そのなかに、門司親徳著『空と海の涯で』(光人社NF文庫)と、拙著『特攻の真意』(文藝春秋)があった。
『空と海の涯で』は、東京帝大を卒業後、短期現役主計科士官として海軍に入り、真珠湾作戦にはじまって南はニューギニア、西はインド洋、さらには特攻作戦まで、まさに空と海の涯で戦いを経験した門司氏の自叙伝である。「パパ・モジ」とデラクルスさんの関係から言えば、この本があるのはわかる。
だが、『特攻の真意』が刊行されたのは門司氏歿後で、誰かが届けない限り、フィリピンに渡ってくるとは思えない。飛び入りで訪ねた異国の博物館で、まさか自分が書いた本と再会しようとは思わなかった。
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