ヤギとコミュニケーションをとろう
広島ミニヤギ牧場
菅原 常司
はじめに
動物は,よく観察し,ふれあってみないと分からないことたくさんあります。ヤギとふれあっていると感性が豊かな生き物というのがよく分かります。ヤギは,ヒトと社会性を持つ能力やヒトを好きになる能力が高いところが他の草食系の家畜には見られない良いところだと思います。
ヤギには,不思議な魅力があります。ヤギは,犬のように感情を表にださないのですが,つきあっていく内に繊細なヤギの心の動きが分かってきます。
ヒトと仲良くなるには,触ってあげることが必要です。慣れてくると,エサを持っていなくても寄ってくるようになります。手で体に触ると気持ちよさそうな表情になったり,そっと近づいて寄り添ってくれたりします。そんな,ヤギと人が心を通わせる瞬間が楽しく,心が癒されます。ヤギと遊び,じかに触れる体験を持つことで,温かみを感じたり,ヒトと同じように生きている生き物がいるということの不思議さ,すばらしさを感じてもらいたいと思います。
1 ヤギの変わった行動
①ぺろぺろする → 額をすり付ける行動
動物がコミュニケーションを取る時に使う器官は,攻撃に使う器官と同じであったりします。ヤギは,ケンカをする時,額と額をぶつけ合います。ヤギ同士の挨拶は,「額と舌」でコミュニケーションをとります。互いの顔をペロペロしたり,額と額をコンコン合わせたりします。
②ヤギが額をすりよせてくるのはあいさつ行動
ヤギに額を押し当てられることがあります。これは,ヤギが人に額をスッと寄せてきたら,「親しみを込めた挨拶」ととらえて良いと思います。
ヤギは,舌でペロペロと人の手をなめてから,額を数回軽くすりつけてきます。この行為は,人間を相手にしていても,ヤギと同じコミュニケーションをとろうとする行動です。
この行動を知らないと,人間と体型が違うため,互いのコミュニケーションのすれ違いが起き,ヤギをしかったりしてヒトに慣れなくなります。
人がヤギの額(ほっぺ)をなでると喜ぶ反応も,実はヤギにとって,額を相手の顔に額をすりつける「ヤギの挨拶」と同じ行動です。ヤギの反応には,優しい気持ちが詰まっていることを知ってください。
→お返しにヒトも角度がよければ,ヤギの額をすりつけてみたり,ヤギについて歩い てみたりして,気にかけていることをアピールとますます仲良くなれます。
③「ヤギの遊び行動」
頭と頭で軽く押し合う。枯れ枝をくわえる。頭や前足を使ってものを動かす。体をくねらせながら跳ね回ったり,急旋回したりする。母ヤギやヒトの背中に登る。子ヤギ同士で追いかけっこする。足場の悪いところや高いところにへのぼる。
※「マウンティング」…オスとオス同士の間でも,性行動のまねをします。
⑤「ヤギの反駁行動」
ヤギは,食べたものを吐きもどして消化しやすいようにかみなおします。その時は,嫌がらずに触れさせてくれますが,口の動きが止まるようだったら触れないでください。特にヤギは,特にエサを目にすると食べることに心を奪われて回りが見えなくなってしまうからです。エサを食べている時は,目の前のエサは全部自分のもので,いつも遊んでいるヤギ同士でもライバルになります。顔ではじき飛ばしたり,追い払おうと耳をかんだりします。優しく,そっと見守ってあげましょう。
※小さい子ヤギや角のない弱いヤギは,体の大きい大人の山羊たちに耳をかまれたり 頭突きをされたりします。これは,「群れの中の序列」をたたきこむ行動です。
2 ヤギと親しむ方法
(1)「ヤギ語」でヤギの気持ちを知ろう
ヤギは,鳴き声でコミュニケーションをとっているかどうかは定かではありませんが,親子で,はぐれた子ヤギが母ヤギを探して鳴くと母ヤギが鳴き返して鳴き声で確認をとっている場面を目にすることがあります。
①ヤギ語
助けて~,どうにかして | メェ! メェーッ! 強く,長く鳴く | 追われる,角がひっかかった時,強く要求している時の意思表示 |
そばに来てほしい さみしい | メェ~ン メヘェェェ~ か細く鳴く | ヒトを呼んでいる時 |
がまんできないよ
| メェーー メーーーン 強く短く鳴く | そばに来てほしい時等,困っている意思表示 |
お腹すいたよ | メェ メェ メェ と繰り返し鳴く | 要求する時 |
うれしい時 甘えている時
| ンメェェ~ ンンンン~ ククククク 小さく鳴く | 喜んでいる時 満足している時
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②鼻,臭覚
母ヤギは,子ヤギの臭いに敏感で,子ヤギのおしりの臭いをかいで認識します。臭覚が発達しており,草を食べる時は臭いをかいで食べる動作や防虫スプレーをかけるとしきりに「クシュンクシュン」とむせたりします。
③視力
顔の左右に目がついているので視野は広く,320度から360度あると言われ,動かなくても周りのものが見えます。しかし,近い場合,焦点を定めてものを見るのは苦手と思われます。夜の視力は高く,暗くてもでも草を食べます。ヤギの目の色は,いろいろですが,黄色や茶色が一般的なようです。
④聴覚
音に対する反応は早く,わずかな音でもピンと両耳を立てて周囲を確認します。
3 ヤギが喜ぶさわり方 ※ヤギに触ったら必ず手を洗おう。
それぞれヤギの性格はみな違います。落ち着きのないヤギ,見かけは怖いけど人なつっこいヤギ,おっとりしたヤギ,臆病なヤギ,人見知りするヤギ,警戒心の強いヤギ,引っ込み思案で寂しがり屋なヤギ等,いろいろです。
ヤギの中には,慎重で人間にあまり関心を示さない個体もいますが本当は,ひとりぼっちが苦手で,だれかといっしょにいるのが好きです。
まず,ヤギと仲良くなるには,「優しく頭をさわって」あげてください。ヤギのかわいさは,「エサをくれた人の顔を覚えている」ことです。しかし,ヤギの本当のかわいさは,自分からなでてほしくて「すり寄ってくるところ」です。人に慣れてきて,なでてほしい時はいっしょについて来たり,顔を見上げて見つめ,顔をスリスリしてきます。人に近寄ってこないヤギには,名前を呼びながらまずエサを与えます。次に,名前や声をかけながら軽く頭をなでてあげてください。
(1)なで方のポイント
ヤギの目の高さに合わせる
犬と違い,目を合わせることを嫌がりません。目の高さを合わせると好奇心が強 いので,自分から近寄ってきます。
② ふれると喜ぶ所
まず,軽く首から背中にかけてなでてあげてください。仲良くなったら,マッサー ジします。左の首を上から下へとなでていきます。
(2)好きな部位 ◎角の間をゆっくりとグリグリかく。 ◎耳の後ろをかく。 ◎毛並みにそって首や背中をさする。 ◎首輪の下をゴシゴシかく。 ×足の関節より下をつかむと嫌がる。 ×横になっている時に,触って首をふったら嫌がっている合図。 |
※背中をなでられるのがあまり好きでないヤギもいます。
※若いヤギの中には,強く触れられるのが苦手で,顔や頭を長く時間さわると逃げ る時があります。その時は,背中を毛先にそってザツザッと軽くなでる。
次第に慣れてきたら,「ほっぺ」を優しく触って,なでます。
※頭を回すようにふったら「いやがっている」合図です。おとなしいヤギは,そっと 離れていきます。いやがっている様子を見せたら,すぐにやめてください。
※ヤギは,どちらかというと子どもが苦手です。自分より体の小さい者や頭の高さが 自分より低い者をナメてかかる傾向があります。大人がいっしょになでてあげると おとなしくなります。
4 さわる順序 ※ヤギから見える位置に近づいて触わろう
※お腹を触られるのは苦手です
①ヤギが見えるところから近づき,触ります。ただ,ヤギによって,どこをなでられ たいかそれぞれに好きなところが違います。基本は
「頭」→「ほっぺ」→「首や背中」となでるようにします。
②気持ちが良い時,ヤギは自分から刺激のある方向へ首や頭を傾けます。
特に,「耳の後ろと角の間」をかかれるのが好きです。
③なで終わって,ヤギが頭を軽くすり付けたり,見上げるように見つめられたら気に 入られた証拠です。ヤギのほっぺをなでていると,脇の下や腕の間にちょうどよいスペースへ頭をぐいっと寄せて来たり,目の前に「手」があるとなめてきたりします。
5 ヤギに触ってみよう
声をかけながら,頭→ほっぺ→耳の下→目の下あたりをなでる。→首をなでる。
6 ヤギにしてはいけないこと
① ヤギに急にかけよったり,急に飛びついたりしない。
② ヤギの「角」はつかまない。
危険 頭を押さえつけられるのをいやがります。その時,目線がヤギと同じ高さだと 首を上下にふり,ほほや目をつく場合があるので十分気をつけましょう。
③ ヒトに頭突きをしようとするヤギは,近づかない
ヒトに慣れていないオスヤギは,頭突きをしようと身構える行動や頭突きをして きます。これは,子ヤギの社会化期に十分ヒトとコミュニティ持った経験が少な いからで,幼い頃から飼い主は「制止をするコールのしつけ」をする必要があります。
④ 突然,大きな音はたてない
⑤ 子ヤギは,敏感
子ヤギの中には,「頭のつむじや耳の後ろをかかれる」のが苦手なヤギもいます。 その時は,ほほや首筋をやさしくなでる。気持ちいいと顔を手に押しつけてきます。
⑥ ヤギ同士で額と額をぶつけ合う行動を見たら
挨拶のようなもので,頭突きで群れの中の優劣を決める行動です。人間はおそわな いので安心してください。
ヤギと育てた安心みかん&レモン |
| 健康な作物は健康な土づくりと根っこづくりから 〈低農薬で有機みかん栽培〉
『ヤギさんのいるみかん園』
-堆肥でみかん園の土作り(微生物を増やし)をして,しっかりと根がはるように取り組んでいます-
■ヤギのふんは,黒大豆のように小さく丸い形で,家畜の中では最も水分が少ない(50~60%)ので堆肥作りで水分調整の必要がなく,短い期間で堆肥ができます。沖縄や奄美大島でも,ヤギ飼育と果樹生産を組み合わせて有機栽培に取り組み,堆肥化した「やぎふんで土づくり」をすることによって味のよい柑橘類を生産しています。 堆肥は,ヤギのふんや食べ残しのえさ(草,枯れ葉,小枝や野菜)を含むものと草木灰をまぜて利用しています。 ◆具体的には,季節に応じて11月~4月頃は気温が低いので,やぎのふんなどはみかん園に直接まいたり,みかん園の横に積んでおいてから草木灰とまぜて土にすきこみます。暖かくなる5月~10月には,ふんなどを一輪車で集めて発酵堆肥にします。堆肥の原料は,ヤギふん,雑草(窒素),米ぬか,野菜くず,おがくず,わら,小枝(炭素)などを堆肥場(コンパネで囲い,地面にブルーシートをしく)に入れます。上にブルーシートでおおい,ホークでまぜ空気を入れて発酵させます。それを,4月頃まで寝かせてから使用しています。 | 広島県のみかんの起源 (『広島県庁農林水産部農産課及び広島県の果樹来歴書』より) | 『広島県農業発達史第二巻』によると,みかんの発祥は天文年間(1537年)に安芸の国の住人木村道禎が讃州(香川県)から小ミカンの苗木を求め,安芸郡蒲刈島の向村に殖栽。その後永禄年間(1558年~1569年)に安芸郡下蒲刈村(現下蒲刈町)へ増殖したのが始まりとされている。 香川県から小ミカンを入手となっているが,香川県では小ミカン伝来の歴史にかんする記録なく,入手の検証は出来ない。また,安芸と有田を比較すると,小ミカンの安芸への伝来が事実とすれば,八代から有田への伊藤孫右衛門による小ミカン伝来は天正2年(1574年)なので,広島県への小ミカン伝来は有田より37年ばかり早いといえる。しかし,安芸の国においては、天文年間以降の小ミカン栽培の広がりはなく,元和5年(1619年)に紀州藩から移封された浅野長晟が紀州から「紀州みかん」を取り寄せて増殖を勧めている。このことは,紀州有田への小ミカン導入が安芸より遅かったにしろ,元紀州藩主の浅野公が安芸藩の農家の活性化のために紀州みかんを導入したことは,その時代(江戸初期)には紀州蜜柑が大変優れていたことの証明となろう。つまり,伊藤孫右衛門や有田の人たちの品種改良が九州や四国より進んでいたことの証明でもある。 広島県における温州みかんの本格的な栽培は明治27年頃からである。導入の最初は文改元年(1818年)。豊田郡大長村の秋光彦左衛門が栽培したとなっている。広島においては,小ミカンの伝来が有田とあまり時間のズレがなく,また,九州に近い地の利から温州みかんも江戸時代末期には伝来があったと思われるが,江戸時代においては産地的生産にまで至らず自家用としての栽培に留まっている。広島でのみかん栽培が盛んになるのは,明治36年の青江早生品種(大分県北海部郡青江で発見された普通温州の枝変わりで,わが国最初の早熟みかん(通称早生みかん)の導入からである。 |
| ミカンサビダニ | レモンには潰瘍病が | 無農薬でみかんづくりをしてきたが,「サビダニ」と「潰瘍病」が復活してきました。これまで忘れられた害虫と病気です。私の父は長年,農業委員としてみかん栽培を研究し,地域の農家の方と共にみかん栽培に関わってきました。 サビダニが発生すると『みかんが全滅する』と語り,臭いのきつい石灰硫黄合剤を散布してミカン園を守ってきましが,ミカンサビダニはとても小さいので,被害が出るまで分からないことが多い恐ろしい害虫です。サンマイト水和剤が薬剤として効果が高いそうですが,使用はしていません。 | 「ヤギさんのいる菅原オレンジ農園」のみかんは,農業委員としてみかん研究家として生きてきた父が亡くなってから,もう何年もみかん販売はしていません。 それは,農薬や化学肥料は一切使わないため品質がそろわず,商品作物として出荷できないからです。農園のミカンは毎年,秋になると気さくな仲間や私の教え子たちが島へ遊びにきた時,自由にみかん狩りを楽しんでいます。フルーティないい香りがします。
幻のみかん 小林みかん - 「たかしのミカン」- 柑橘は種類によって,「香り,酸味,甘味,旨み,後味,喉越し」がみんな違います。 |
|  |  | ■偶然にも,息子のたかしが見つけたので『たかしのミカン』と命名。珍しいミカンで,私たち家族だけの贅沢なプライベートみかん。家では半分に切ってからスプーンですくって食べたり,しぼってジュースにして飲んだりしています。
■小林柑は,夏みかんと温州みかんの接ぎ木雑種の品種で,今から50年ほど前に植えられましたが,生産量は少なく,今では地元でもめったに手に入らない希少なみかんです。見た目は夏ミカンみたいですが,半分に切ると実が赤く,味は少し大味なミカン味でジューシーで,食味も絶品です。 |
上野早生/興津早生/宮川早生 -旬の喜びいっぱいつまったおいしさ- |  |  |  | みかんは,収穫される時期によって早い品種から極早生(ごくわせ),早生(わせ),中生(なかて),普通みかんに分けられます。極早生の収穫は9月~10月,早生は11月~12月前半,普通みかんは12月です。極早生と早生はすぐに収穫しますが,普通みかんはすぐに出荷(しゅっか)されるものと倉庫に一時保存,予措(よそ)貯蔵(ちよぞう)してから出荷します。品種には,石地,日南1号,宮川早生,南柑20号,大津4号,青島温州などがあります。このほかに,最近は,津之望,津之輝,西南のひかり,はれひめ,南津海,はるひといった新しい品種もあります。 | 百年小みかん -下蒲刈島といえば「葉つきみかん」- |  |  |  | ■広島県のみかん栽培は,江戸時代の1537年ごろ,呉市下蒲刈町で栽培されていた「小みかん」に始まったといわれています。みかん畑の多くは,海のそばにあり,石垣のあるだんだん畑になっています。ミカン畑は太陽の光と海からの反射された光に暖められた石垣の石によって土があたたかさを保ち,木が育ちます。だから,あまくておいしいいみかんができるのです。
■広島県の島しょ部は,一年を通して温暖で晴れの日が多く,畑の土は水はけがよく,栄養分を多くふくんでいるので,おいしいみかんができる環境にめぐまれています。そのため,明治維新をへて1900年ごろからさかんに栽培する農家がふえはじめたそうです。
■ミニヤギの後ろの小みかんの木は,百年以上も前に植えられた我が家自慢の小みかんの原木です。下蒲刈の小みかん栽培は歴史が古く,かざりもののミカンとして正月に売られている『葉つきみかん』としても有名です。
■私が子どもの頃は,収穫した小みかんを家に運び,畳をあげてそこに山積みをして貯蔵していました。そして,「みかん船」にのせて量り売りをしていました。
| デコポン(不知火)-皮がでこぼこして,むきやすくて,大変甘い糖度13~14度にもなる- |  |  |  | ポンカン(太田ポンカン) 12月の終わりから収穫。糖度11~12度と甘く,皮が柔らかく香りが良く食べやすい。独特の香りが生きています。 |  |  |  | ■みかんの木は,種をまいて育てるのではありません。まず,カラタチというみかんの仲間の種をまいて,カラタチの木の根元がえんぴつの太さぐらいになったところで,味のよいみかん品種の枝や芽をくっつけ,苗木をつくります。
■この苗木を2年間ほど育てた後,みかん園に植えかえます。みかん園に苗木を植えてから4~5年ぐらいでみかんがなりはじめ,10年ぐらいからたくさん実るようになります。
■みかんの木は90年ぐらいたっても実をつけることがありますが,もっとも多く実をつける木は15年~30年ぐらいたった木です。それから少しずつおとろえていくので,だいたい30年をすぎたころから新しい木に植えかえます。 | |
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| | 下蒲刈島の海 |
| 下蒲刈町のボラ網漁 | 大地蔵の『ボラ網小屋』を想う | 大地蔵の尾ノ鼻,岬の突端には,かつて『ボラ見張り小屋』が建てられていました。当時は,イワシ漁やボラ網漁が盛んに行われ,地域の人々は総出で舟を出し,網を張り大漁でにぎわったそうです。しかし,海の環境変化からか,四国の沖から瀬戸内海へと回遊して来るボラやイワシの群れもやがて姿を見せなくなり,ボラ網小屋もなくなりました。島独特の漁法,文化として見直されるといいですね。 | 平成22年10月,上黒島に訪れたところ,ボラの大群が沖の浅瀬に集結しているのを発見!海面付近に群れで真っ黒になるくらいの大群が集結する場所がみられました。このボラの大群の実態は定かではありませんが,上黒島・下黒島,下蒲刈島の海洋調査が急がれます。新たな発見が期待できそうです。 | |
 | 私が小学生の頃,船に乗って上黒島にあったお宮や水田,下黒島にあるイモ畑に行く途中の海で,船にスナメリが寄ってきた思い出があります。スナメリのエサとなるボラが多くいるからでしょうか?しかし,1970年代に入ってスナメリは姿を消しはじめました。そして,そのエサとなる『ボラ』は,産卵の時期やどこに移動して産卵するのか未だ謎につつまれています。産卵時期の10月から翌年1月まで,どこかにある産卵場所へ旅立つため,大きな群れとなり移動するそうです。 | 島の海洋資源を守るには… | 下蒲刈町の大地蔵地区では,漁場機能を回復させ,漁場を守ろうと,藻場の保護や魚礁の設置,自然石の海中への投入設置(築いそ)など,漁場の整備や漁場環境の維持・保全,海底清掃や干潟造成の実施により,「守り,作り,育てる漁業」に取り組んでいます。しかしながら,海岸生物の減少か?食物連鎖の関係から漁業にも影響を及ぼし,漁獲量は減少しています。海底の生物の実態や生息地の調査が急がれます。
| また,大地蔵地区の正面に位置する上黒島・下黒島には,産業廃棄物の最終処分場があります。上黒島の95%はごみ処分場の敷地で「ごみの島」となり,大地蔵からはその様子は見えません。東京の廃棄物処理業者が平成元年から当時の採石場跡に鉱さいや工場から出る汚泥,熱処理で灰にした家庭ごみを今も島に埋め続けられています。焼却灰や鉱さいを埋める管理型処分場は,構造や排水基準に厳しい規制があり,本来なら有害物質の流出はありえず,地面の底に敷いたシートは100年以上持つ。」と説明されているようですが,島の中央に断層があり,断層部分にしかれているシートが破れたら…。という心配もあります。定期的な環境調査はなされているのでしょうか?「瀬戸内法」(瀬戸内海環境保全措置法)は,環境悪化が深刻化した1973年に瀬戸内住民と行政の共同によって議員立法として制定されました。1950年代後半から経済成長と開発ラッシュで,遠浅の海は埋め立てられ,藻場や干潟が減少していきました。瀬戸内法施行後,減少はしたのものの,1975年から1995年の20年間に約13,000haの海域が失われてしまいました。また,埋め立て場は,産業廃棄物の捨て場として,香川県豊島に約50万トンもの産業廃棄物が不法投棄されたニュースは有名ですが,広島県呉市下蒲刈町上黒島と下黒島には,150万トンの産業廃棄物が持ち込まれていると言われています。ゴミの島となって,あれから23年の月日がたっています。今では,かつての島の面影や形,山の高さも変わってきています。安芸灘震災や東日本大震災の教訓は今後,どう活かされ,未来に生きる子どもたちにつなげていくのか懸念され大きな問題です。 |
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| |  | 【下蒲刈島と下蒲刈町】 島の風土が育んだ 人情厚い島人たち
| 本当の豊かさとは何をもって言えばいいのでしょうか | 下蒲刈町は,小さい島でながら地形が変化に富み,四方を海に囲まれ,南には遠く四国連峰を臨み,多島海独特の風光明びな景観や緑豊かな自然に恵まれた環境にあります。 | 歴 史 | 明治24年7月24日下蒲刈島村として発足以来、57年で村の時代は終わり、1962(昭和37)年1月1日町政が施行、下蒲刈町となった。2003(平成15)年4月1日に呉市に編入されました。 | 気 候 | 気候は,年平均気温は約16.2℃,年降水量は約1.436mmと温暖で雨の少ない瀬戸内海気候です。主な産業は,急傾斜地と瀬戸内海性の温暖な気候を利用して,かんきつ類(みかん,デコポン,レモン)やイチゴの栽培が行われています。 | 交 通 | 1979年10月上蒲刈島との間に蒲刈大橋(全長480m)が開通し上蒲刈島と陸続きになる。さらに、町民の悲願であった夢の「安芸灘大橋」が2000年に完成。地域産業の振興,町民の利便性や定住条件の向上など,豊かな自然と歴史を生かした魅力あるまちづくりを模索しています。 | 位 置 | 下蒲刈島は,瀬戸内海安芸灘の芸予諸島の中にある島です。広島県の南の端にあり,呉市仁方町の南東の海上,約5kmに位置しています。2003年4月1日には,呉市に編入され,平成12(2000)年1月18日に安芸灘大橋(全長1,175m)が開通し,上蒲刈島・下蒲刈島ともに本土と陸続きになりました。とびしま海道で最初にわたった島が下蒲刈島です。 | 人 口 | 2002年3月31日の人口は2,259人 →2011年8月の人口は男863名,女920名,計1,783名と推移し,2015年1月末現在は、わずか1,592人 (●男771人女821人、世帯数806世帯と激減し、高齢化に向かっています。 | 学校は島の 文化の中心 | 潮騒の聞こえる下蒲刈小学校の学び舎(や)には,都会にはないのびやかな自然環境があります。海は,人を育む場なのです。統廃合で3つの学校が1つになり,子どもたちが減少していき,過疎と高齢化が急速に進む下蒲刈島。人は少ないけれど,島じゅうの人が大きな一つの家族。 | 集 落 | 下蒲刈町は,下蒲刈島と上黒島32.5ha,下黒島23.0ha,ヒクベ島0.03haの3つの島をあわせた町です。総面積は,8.71平方キロメートルあり,島で一番高い最高地点は,大平山の山頂で海抜が275mあります。 島は,海からすぐに山に接する,急傾斜の土地が多くて,その中の限られた平らな地域に3つの集落,下島(しもじま),三之瀬(さんのせ),大地蔵(おおじぞう)があります。 | 地 質 | 下蒲刈島の地質は,北側の半分が古生層の「砂岩」をともなう『粘板岩』でできています。また,島の南半分は,『花崗岩』でできています。そして,島の北の端,安芸灘大橋の下にある「白崎」には,『石灰岩』が露出し,白くみえているのがわかります。この「白崎」から,「見戸代」から「大地蔵」の尾ノ鼻の北斜面に断層がとおっています。 | 大地蔵地区の記憶 | 大地蔵地区
| 海岸線が埋め立てられる前の大地蔵地区は、白砂青松(はくしゃせいしょう)の美しく長い砂浜が続いていた。民家は、海側(南側)を高い石垣やブロック塀で固め、台風の高波や強風に備えていた。昭和40年代、私が遊びざかりだったころ、夏になると浜でよく泳いだ。大地蔵小学校で、西から東に向かって遠泳もした。近所の友達と砂遊びや相撲、はだしで砂浜を競走した。また、イワシをはじめ多くのアイナメ、メバルなどの魚やアサリ・シャコがとれた。 大地蔵地区は、明治の初めごろ民家は30戸ぐらいしかなかった。下島地区から移り住んだらしい。その後、イワシ網が盛んになり、呉市冠崎の漁師さんたちの前線基地となって定住した人もいた。イワシの群れが近づくと東の牛ヶ首と西の尾の鼻の海に突き出た小高い場所に作られた魚見(うおみ)やぐらから合図を送った。浜で待っていた漁船が一斉に沖合いに出てイワシが近づく方向に網を張ってとった。大地蔵は「イワシ網でできた地区」だとも言える。盆踊りには、イワシを運ぶ竹でできた「マイラセ」を持って踊っていた。 |  マイラ | 大地蔵の食文化 | 私が子どもの頃は、山の畑のいたるところでサツマイモが作られ、『地蔵のイモ食い』という言葉が使われた。祖母は麦と米、サツマイモの混合飯を作って食べさせてくれた。押麦と米のご飯を炊くと分量の多い麦は上に残り、少ない米が下にたまる。祖母が私に、釜底から先に米をすくいあげて食べさせてくれた。母親や父は後から上の麦を食べていた。イモを生で切って干して乾燥した「かんころ」、それを粉にして煮て、味を付けて食べる「かんころ餅」をおやつで食べていた。倉庫には味噌樽があり、自家製の麦味噌を食べていた。 | 海藻と島のくらし | 波静かな水の澄んだ大地蔵の海岸線は、アマモなどの海藻が豊かに生育する。春になると海藻採集の時期を迎える。また、「テングサ」や「ヒジキ」は大切な食材だった。戦後は、塩が不足していたので、天日干しにしたワカメは、貴重な塩分補給源だった。ワカメをゆで、冷水で洗い、軒下に干していた。また、ヒジキは、寒の大潮に採ったものは、「寒ヒジキ」といってやわらかいので重宝され、今も「姫ひじき」として販売されている。「テングサ」は、井戸水で何回もさらして夏の日に当て、トコロテンにしてごま味噌をかけて精進料理としてよく食べた。テングサは、正式には紅藻類テングサ目テングサ科に属する海藻で一口にテングサといってもいろいろな種類のテングサがある。テングサといって、マクサ、ヒラクサ、オバクサ、オオブサ、キヌクサ、その他にもオニクサ、ユイキリといった名前のテングサがあり、海藻です。テングサ(天草)は、春から夏にかけ岩から離れ浜に打ち上げられたものを拾い自家用にしたり行事などに使われる。採取したものは真水で洗い、広げて天日にさらして乾燥させる。これを何回も繰り返していると白っぽくなる。よく乾燥さると何年でも持つ。「海藻」・・・・・花が咲かないで、胞子で増える。「海草」・・・・・花を咲かせ、種を作り種で増える。 | マクサ(天草) |  | 子どもの時の思い出(回想) | ◆子ども時代の思い出 私は1955(昭和30)年に大地蔵で産まれた。ミカンと漁業に生きる半農半漁の「へき地」だった。幼い頃の石炭が燃えた臭いを思い出す。イワシをゆでるのに石炭を燃やし、その時に出る臭いだ。 かつて大地蔵漁港は、今の観音山トンネルのある東のはずれにあった。大正元年から昭和10年ごろまでは「イワシ網」が盛んだった。網が5じょうあって、1じょうに30人もついて大漁にわいた。イワシは鮮度が大切なので、とれるとまず「マイラセ」と呼ばれる竹カゴにイワシを入れ、釜(かま)に移して湯がいた。湯がいたイワシは道路に広げ、よく乾燥するまで何日も干していた。 道路には、エビ網でとれたエビやシャコ、イワシがあちらこちらに干してあり、それを食材やおやつ代わりによく食べた。「頭の黒い猫がイワシをとって食べようる」と言われた。 ◆時々、「どーん」と大きな爆発の音がした。前にある黒島の山を崩し、埋め立てに必要な岩をとるためだ。爆破で命を落とした人もいる。 ◆防波堤のなかった頃の道路は、すぐ真下が砂浜で、相撲をとったり、七夕の日は、笹に火をつけて燃やした。ゴカイを掘って魚のエサにし、竹を切って釣り竿を作り、釣り針は岩場で探し、おもりは、小さな石を糸にくくって釣りをした。アサリ掘りに行くと、すぐにバケツ一杯になり、おばあさんによくほめられた。砂の中からは、戦争時代の銃弾の薬きょうや赤珊瑚を見つけたりもした。 ◆男の子は勇気を試すのに、石船から飛び込んだり、伝馬船をこいで沖に出たりした。遊びから潮の干満や船の操り方を覚えた。釣り、貝掘り、牡蠣やサザエ、アワビ、イイダコをとって海で遊んだ記憶がある。 ◆春は、綿郷神社の近くの田んぼでメダカやドジョウを捕まえて遊んだ。山では、ツワブキやワラビをとって小遣い稼ぎもした。お菓子が少ない時代、お腹がすくと山に行き、ニッケの木を見つけて、根をかじったり、イタドリをとったりしておやつがわりに食べた。 ◆秋には、父と田んぼに行く途中、山の中で「動くなよ~」と言われ、足下を見ると足の踏み場がないほど松茸が生えていたのを覚えている。しかし、その後、松食い虫が大発生して赤松は枯れ、島の人も山には入らなくなり山が荒れてきた。1974(昭和49)から松食い虫の防除が始まる。 ◆大雨被害 1967(昭和42)年は、特に思い出の深い年だ。それは、7月9日の豪雨。2名の方が亡くなり、負傷者15名、倒壊家屋13、同級生の家も土石流で倒壊した。不幸にもこの年は、7月以来雨が降らなかった。そのため、ミカンの木は枯れ、家にあった井戸の水を飲むとしょっぱい味がして、泥水の風呂に入った記憶がある。翌年の1969(昭和43)年にようやく大地蔵簡易水道ができ、安心して水が飲めるようになった。 ◆沿岸漁業の衰退 大地蔵漁港は、波よけのコンクリートのパラペットが完成し、砂浜が続いて遊んでいた浜の景色が一変した。1967(昭和42)年に港のしゅんせつ、波止場、中央荷揚げ場などを新設する港湾整備事業が完成。漁港整備で港はきれいになったが、皮肉にも「底引き漁業」は衰退していった。終戦から昭和40年代は、底引き船だけでも40~50隻いた。エビ網をする人は、朝6時に出漁して午前と午後に2回網を入れる。夕方5時ごろ帰港し、底引き漁が盛んだった。しかし、次第に漁獲量が減少し、昭和49年頃になると、底引きの船13隻、タコ船5~6隻、1本釣りの船3~4隻、コノシロをとるグリ網船2隻と減って、漁業から転職をする人がでてきた。 そのころ大地蔵地区は、漁船の他に外国航路の大型船を含め、鉄鋼船が30隻、石材や砂利を運ぶ石船(いしぶね)が20隻いたが、かつてののどかな漁村風景や大漁でにぎわう様子が次第に姿を変え、港には朽ちた廃船を目にするようになってきた。 その理由の一つが、赤潮が異常発生した昭和45年の環境汚染だった。 |  たこつぼ漁 |  | ◆たこ壺の重さは約4㎏あり、船に積んで沖に出る。太い綱に10mごとに1個ずつくくりつけて、水深が30~40mくらいの海底に沈めた。タコはこの壺を、「すみか」と思い、入りこむ。たこ壺の引き上げのは、先に沈めたものから1日おきに上げていく。大潮の日は15日ごとにやってくるので特に、大潮で潮の流れが大きい時はタコが驚き、壺に入りやすいということを聞いた。漁期は7月 ~ 9月。
|  イカ壺(つぼ) |  | ◆竹と糸とツゲの枝で作られた籠の漁法。周りに網をはった円筒形のかごの中央に「ツゲ」の枝を入れ,周りに直径約10cmほどの穴がある。ツゲの枝を海藻に見立て,産卵にきた「甲イカ」をつぼの中にさそいこむ。かつては,1つぼで20匹以上も入っていたそうだ。船に50つぼほど積み,沖合に沈ませ,4月下旬 ~ 10月まで漁をする。 | 海の環境汚染で翻弄された「コノシロ漁」
| ◆コノシロという魚は、武家社会では、「この城を焼く」に通じることや切腹の際に出されるため「腹切魚」と呼ばれ敬遠された。そのため、江戸時代には、幕府によりコノシロ漁は禁止されていたが、寿司にするとうまいため、「コハダ」と偽って江戸の庶民は好んで食べた。 1970(昭和45)年に瀬戸内海の赤潮が異常発生した。1973(昭和48)年、PCB(ポリ塩化ビフェニール)汚染問題で魚の不買騒ぎが起こる。コノシロは、汚染魚として取り上げられた不運な魚である。それは、えさの植物性プランクトンの多い沿岸水域に集まり、大きな口を開けて入るものなら何でも食べてしまうので、「赤潮の原因になるようなプランクトンでも食べてしまう」という理由で「コノシロが増えると海が汚れた」などと汚染の指標にされてしまったからだ。 ◆私は、父が漁から持ち帰ったコノシロを炭火で焼いて食べた記憶がある。臭いは独特で、骨も多いがおいしい魚だ。PCBが厚生省暫定基準以下だから広島県産のコノシロは食べても大丈夫と安全宣言がでた。そこで、昭和48年9月4日、地元の漁師さん6人は、大地蔵沖に網を入れ、とれたコノシロ約10トンを中央市場に持ち込んだ。しかし、全く値がつかずに、結局は養殖ハマチのエサになった。そのため、そのうち4人がコノシロ漁に見切りをつけ転職し、その後は、漁をする人手がそろわず、捕っても値段がつかないので、大地蔵のコノシロ漁がなくなった経緯がある。今で言う風評被害である。 ◆コノシロは美味で、郷土料理に「さつま」 がある。幕末の参勤交代の時、呉地方に来た薩摩(鹿児島)の武士が自炊したのがその起こりだとされている。漁期は9月から3月。体長20cm余りに成長するコノシロの呼び名を倉橋島では、体長7~12cmの幼魚をツナシ、16cm以上をコノシロ、その中間の12~15cmをオタザイナシと呼んでいる。鰶(このしろ)・魚へんに祭りと書いてコノシロ。最大25cmに達し、内湾の岸近くの砂泥域に生息。産卵期の初夏に海水と淡水が混ざる汽水域まで回遊する。背びれの一番後ろの軟条がアンテナのように長いのが特徴。植物プランクトンを好んで食べ、寿命は約4年。 |  ボラ網漁と魚霊塔 | ボラの墓(昭和4年3月15日建之)かつて、大地蔵の「尾の鼻」にボラ網を引いた浜があった。山の上には「やぐら」があり,ボラ網漁の期間中は20~30名の人がこの浜で働いてにぎわっていた。浜の山ぎわに「元小屋」といってご飯をたいたり,食事して休んだりする8坪ほどの小屋があった。その裏山に、ボラの霊を慰める魚霊塔「ボラの供養塔」が建てられた。元小屋で煮炊きをしている間,この華蔵界と刻まれた石碑に毎日御神酒(おみき)を供えておがんだそうだ。 「華蔵界(けぞうかい)」というのは「蓮華蔵世界」,仏様の浄土のことで,漁師さんがとらえたボラたちが華蔵の宝利(浄土の立派なお寺)に向かってくれることを祈願した。この文字からも,大地蔵地区の当時の漁師さんたちの信仰心の厚さや心の優しさがうかがわれる貴重な石碑と言える。 | 鉱山跡-金山- | 森を50m進み、北側の斜面にズリ場がみられる。鉱山跡の坑道は、高さ約1メートル、幅約1メートル、奥行き約7メートルあり、入ってすぐ右に分岐し掘られた跡がある。戦時中に資源不足のため再採掘されたものか?鉱山の跡は金属の採掘が重要な産業だった時代の遺蹟として戦中、戦後に資源の枯渇による歴史の記憶を知るための歴史教材と言えるだろう。鉱山は、かつて日本経済を牽引し、日本の礎を築いた根幹産業であり、産業遺産として調査、記録し、活用方法の検討、保存が望まれる。 | 島の人情・風情 | ◆島には、時々芝居が来たが、娯楽が少なかった。日常の主食は、麦と米との混合食で、麦の割合が多く、サツマイモをよく食べた。 どの家も家族が多く、貧しい生活だったが、親子、兄弟がみな助け合いながら生活をしていた。そのため、冠婚葬祭(かんこうそうさい)や寄り合いの場「コミュニティ」を特に大切にしてきた。 寄り合いの際には、みなが家にある米や食材を持ち寄り、共同で料理を作り食べた。今も助け合いの風習の一部は、葬式の場で残っている。このように互いに助け合い、接しながら、料理の味付けや作り方、人間関係のあり方などを自然と学んでいくことができた。結婚も島民の中での縁組みが多かったので、従兄弟関係も多く、自然とお互いに「助け合う生活習慣」がうまれた。 | 環境問題-森と海の健康は,人間の健康でもある- | 環境破壊は,「目に見え始めた時」は,すでに遅い。一部の人が,目先のせまい視野で夢みた,お金(利益)と幸せ(幸福)の追求が,過去、これまでに日本をどんなに不幸におちいらせたか。 | | 森の破壊 | かつては島の自慢で,保護に取り組んできた赤松の林は,松食い虫の被害にあい,壊滅状態。現在は,少しずつ竹林や広葉樹が森をおおってしまい,山や畑が荒れています。「島を公園にしよう」という全島公園構想の試みは,赤松の保護を進めてきた時は良かった。しかし,やめたとたんに松食い虫の大発生。その被害はだれも止められなかった。 環境破壊は,目に見え始めるともう遅い。森が荒れると,イノシシや狸がみかん園や野菜畑をおそい,石垣をこわし,みかんを食べ,枝を折り,木も根ごとひっくりかえしてしまう。農業をやめる人もでてきた。また,カラスの被害も問題になってきています。 | 海の汚染 | 下蒲刈島の多島海独特の美しさは,大地蔵地区の梶が浜,その前にある上黒島と下黒島にあった。しかしながら,その美しい景色もかつての姿は無い。山はけずられ,崩されて島の形が変わり,かつての景観が失われて荒れ果てた状態になっています。さらに,上黒島と下黒島の2つ島には,ゴミの最終処分場があり,ゴミが埋め立てられています。第二の豊島事件(汚染された島)にならないか心配している。  | 下蒲刈の風物史 | 下蒲刈で見られる風景の記録 |
島の風土に根付いた独特の伝統漁法や石碑・自然の保存を | 「去りし者は,日々に疎し(うとし)」という言葉があります。島に残るどんなに貴重なものでも,無くなってしまえば日に日に忘れ去られてしまいます
| | |  |  |  | イカ壺(つぼ) 平成23年9月7日撮影 竹と糸で作られ,周りに網をはった円筒形のかごの中央に「ツゲ」の枝を入れ,周りには直径約10cmほどの穴があります。ツゲの枝を海藻に見立て,産卵にきた「甲イカ」をつぼの中にさそいこむこの漁は,伝統的なイカ漁(イカかご漁)のしかけで『イカ壺(つぼ)』といわれています。地域によっては『イカかご』『イカ玉』『イカ巣』とも呼ばれています。かつては,1つぼで20匹以上も入っていたそうです。船に50つぼほど積み,沖合に沈ませ,漁をします。 | ボラの墓 昭和4年3月15日建之 大地蔵の「尾の鼻」に,ボラ網を引いていた浜がありました。山の上には「取山の矢倉」があり,ボラ網漁の期間中は20~30名の人がこの浜で働いてにぎわっていました。浜の山ぎわには「元小屋」といってご飯をたいたり,食事して休んだりする8坪ほどの小屋がありました。そして,その裏山にはボラの霊を慰める「ボラの墓」が建てられました。その墓の周りの清掃に出かけました。きちんと整備しなければ,すぐにでも流れてしまう危険性があり,早急に保存しなければならないでしょう。 | 石碑の周りは,赤松の倒木や枯れ葉でおおわれ,今はもう誰も拝む人はいないのでしょう…。当時の漁師さんたちは,海の恵みを感謝する心を忘れないよう石碑の表に「華蔵界(けぞうかい)」と彫り,祭ってきました。かつての大地蔵地区はボラ網漁が大変盛んに行われ,元小屋で煮炊きをして食事をしている間は,この石碑に毎日御神酒(おみき)を供えておがんでいたそうです。「華蔵界(けぞうかい)」というのは「蓮華蔵世界」,仏様の浄土のことで,漁師さんがとらえたボラたちが華蔵の宝利(浄土の立派なお寺)に向かってくれることを祈願したものです。この文字からも,大地蔵地区の当時の漁師さんたちの信仰心の厚さや心の優しさがうかがわれる貴重な石碑と言えるでしょう。しかしながら,その文化的な遺産も,知る人も少なくなり,朽ち果ててしまおうとしています。その石碑の正面は,南にある下黒島に向かって正確に建てられています。やはり,下黒島は,私の見たボラの大群が集まる貴重な入り江なのでしょう。下黒島に残るわずかな砂浜の調査やボラの墓の文化財としての保存が必要です。そう考えながら,お墓に御神酒を供え,かつてこの地区にあった歴史が忘れ去られないよう願い,拝みました。 | 野草 | 川や田の生き物 | | | | | | | 「サフランモドキ」 別名「グランディフローラ,レインリリー」開花期6月~9月。花言葉は,「純潔な愛,陽気,喜び,歓喜」。 ヒガンバナ科でタマスダレ属…帰化種で中央アメリカ,西インド原産。花は直径約6㎝。鮮やかな桃色。花披片は6個。雄しべ6個。雌しべ1個、柱頭は3~5分岐。江戸時代に鑑賞用として導入され,サフランと呼ばれていたが,後にハーブの本物のサフランが導入されてから「サフランモドキ」と呼ばれるようになった。鱗茎は直径約2㎝。葉は叢生し,長さ15~30㎝,幅6~8㎜,やや多肉質。平成24年5月18日 | | 「モクズガニ」 別名「「毛ガニ」甲幅は7-8cm、体重180gほどに成長する。川に住むカニの仲間では大型種。オスはメスに比べたくさん毛の生えた大きな鋏脚を持ち、歩脚の長さは長い。 | | | | | | | | | | キノコ |  | | | | 平成24年5月18日 | | | | | |
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